****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

義人は信仰によって生きる③アブラハム

第17日 「神の約束に生きたアブラハム」 

信仰によって生きた模範者たち③アブラハム

はじめに

  • へブル人への手紙の講解説教、今朝も「義人は信仰によって生きる」というテーマのもとに、神によって称賛され、信仰をもって生きた旧約時代の人々の中から、今回はアブラハムを取り上げてみたいと思います。そして、彼がどのような意味においてその信仰が称賛されているのかを考えてみたいと思います。そしてそれが私たちにとってどのような励ましがあるのかを考えたいと思います。へブル人への講解説教ですから、テキストをまずお読みするところですが、今回は一番最後に開きたいと思います。

1. アブラハムの故人略歴

  • アブラハムという人物は「信仰の父」と呼ばれ、ユダヤ人にとっては自分たちのルーツとなる人物です。このアブラハムの年譜というものをさらっと見てみたいと思います。葬儀の時に語られる「故人略歴」のようなものです。

    0歳
    父テラ(ご先祖はノアの長男セム) 70歳の時、三人兄弟の長男としてウルで生まれた。
    75歳
    ハランにおいて主がアブラムに現われた。「わたしが示す地へ行け」との主の声に従ってハランを出る(創世12章4節)。しかしこの召命はウルにいるときにすでに聞いていた(使徒の働き7章2節)。妻サラ (当時サライ)は夫アブラムとは10歳年下で、ハランを出たときは65歳(17章17節)。ちなみに、父テラは145歳(創世記11章26節)であった。テラはハランにとどまり、205歳で死亡。
    86歳
    妻の女奴隷ハガルによってイシュマエルが生まれる(16章16節)。
    99歳
    主、アブラハムと契約を結び、アブラハム及びすべての男子が割礼を受ける(17章)。イシュマエル13歳。主が二人の御使いとともにアブラハムに現われ、翌年に妻サラ(89歳)に男の子ができると告げる。
    100歳
    妻サラがイサクを産む(21章1~7節)。 サラは90歳。

    イサクが青年になってから、主の命令により愛するひとり子イサクを、モリヤの山で全焼のいけにえとしてささげようとする(22章1~4節)。アブラハムの人生最大の危機。モリヤの山(=エルサレム)でアブラハムは神の永遠の都のヴィジョンが啓示される。「主の山の上には備えがある」と訳されているが、「主の山には神のヴィジョンがある」が正解。
    137歳
    サラ死ぬ。127歳(23章1節)。
    140歳
    イサク40歳でリベカを妻としてめとる(24章,25章20節)。
    160歳
    イサク60歳の時、リベカ双子の兄弟エサウとヤコブを産む(25章)。
    175歳 
    アブラハム死す(25章7節)。イサク75歳。エサウとヤコブ15歳。

    ※イサクが75歳。その年はかつてアブラハムが神の召命によってカナンに行った同じ歳である。また、三世代が一緒に生存していた期間は15年。

  • 以上、簡単に、アブラハムの生涯を見てみましたが、なぜ、へブル人への手紙の作者がこのアブラハムのことを取り上げたかったのでしょうか。それは、彼が神の約束を信じてその生涯を生き抜いたからです。彼の故人略歴を見てみると、彼がある事業を起こして、○○○○の業績を残したという記録はなにひとつありません。ただ「信仰によって生きた」という事実だけです。
  • 私たちは信仰が与えられたなら、その信仰によって、なにかある偉大なことをしなければならないように考えます。信仰によって、会堂を建設したとか、信仰によって、これこれの奇蹟的な働きをしたいと考えやすいものです。信仰によって、人々からあっと思われるような働きをしたいと考えやすいのですが、アブラハムが称賛された信仰とは、ただ神が与えるものを受けるという意味での信仰です。
  • 彼はある時期から経済的にも豊かになります。それはエジプトの王から富を与えられたことによりますが、それは彼が信仰から逸脱した結果、与えられたもので、彼の努力でもなんでもありません。彼にとっては失敗の遺産でした。その結果、甥のロトとの間に争いが起こるようになり、とうとう別れなければならない羽目になりました。決して成功談ではありません。彼が自分でなにかをしたときはすべて失敗しています。そして神がその都度、尻拭いをしているのです。
  • そのような事実を知るにつれ、神の約束を素朴に信じて生きるということは、そう簡単ではないということを彼の生涯を通して学ぶことができます。彼は「信仰の父」と言われますが、むしろ、アブラハムが神を信じることを、神が彼の人生の折々で助けなかったならば、「信仰の父」という賛辞は決して与えられはしなかっただろうと思います。

2. 信仰とは・・(定義)

  • さて、へブル人への手紙11章1節には信仰の定義が記されていました。パウロなら、「信仰とは、神が遣わされた御子イエス・キリストを信じる信仰」と定義するところでしょう。しかし、へブル人への手紙の信仰の定義は少し違っています。前回にもお話ししたように、信仰とは非常にダイナミックで、生きたものです。つまり、言葉では簡単に言い表わすことができないものです。しかしあえて言葉に言い表すとすれば、次のようになります。

    (新改訳)
    「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
    (新共同訳)
    「信仰は、望んでいる事柄を確信し、 見えない事実を確認することです。」

  • ここに同じ言葉で訳されている「望んでいる事柄」とはいったい何でしょうか。私たちがそれぞれ自分勝手に思い望んでいることでしょうか。「こうしたい、あれしたい、これがほしい、あれがほしい、こうであったらいいのに」という類のことでしょうか。これが信仰の定義だとすれば、「いわしの頭も信心」となんら変わりません。それは聖書のいう信仰ではなく、私たちの自分勝手な利己的な願望です。信仰とは、神を自分の味方に引き入れて、神の助けのもとに何か大きな事業をするということでもありません。ここでいう「望んでいる事柄」とは、「目に見えないもの(事実)」のことで、いずれもそれを保証し、確信(確認)をさせることです。ここはヘブル語の修辞法である同義的並行法で記されています。
  • アブラハムの場合にそってここを解釈するならば、ここでいう「望んでいる事柄」とは、神がアブラハムに対して語られた約束を意味します。なぜなら、アブラハムが神の語られた約束を信じて望みを抱いたわけですから、神の約束こそがアブラハムによっての「望んでいる事柄」ということになります。ただし、「望んでいる事柄」と「目に見えないもの」とが同義であるとするならば、それは「天にあるもの」、あるいは「永遠の事柄」ということになります。必ずしも、アブラハムの生涯だけで実現されるような事柄ではないということです。
  • 私たちの「望んでいる事柄」とは、大方「目に見えるもの」です。つまり、自分の生活、あるいは人生の中で実現されるような事柄を考えてしまいます。しかし使徒パウロは言いました。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見える者は一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4章18節)
  • ヘブル人の手紙の作者も、信仰とは「目に見えない永遠の事柄」を保証させ、確信させる、それが信仰だと定義しているのです。そのような意味において「信仰の父」アブラハムが取り上げられているのです。
  • そこで実際に、アブラハムが神からどのような約束を与えられ、その約束に対して彼がどのように受け止め、生きようとしたのかを見てみたいと思います。

3. アブラハムに対する神の約束

神がアブラハムに対して語った約束は事柄としては以下の三つです。

① 土地賦与の約束
② 子孫繁栄の約束
③ 万民祝福の約束

  • この三つの約束が、繰り返し、繰り返し、彼の生涯の中で語られ続けます。まず第一に、彼の父テラがハランで亡くなってから10年後に語られた最初の約束です。

(1) ハランで語られた主のことば (12章)

  • 「わたしが示す地へ行きなさい。」と示されたその地は、カナン人の住む地でした。アブラムは主のお告げになった通りに、妻のサライと甥のロト(弟の子)を連れて出かけました。75歳の時です。アブラムがシェケムというところに来た時に主が現われたのです。

(2) カナンで語られた主のことば (12章)

  • 「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」 (創世記12:7) そこで、彼は主の祭壇を築き、主の御名によって祈りました。その後、南の方へと下って行くのですが、最初の試練が訪れます。それはパンの試練です。飢饉があり、彼は食べ物を求めてエジプトに行ってしまいます。神の導きではありません。飢饉に対応した行動でした。そこで彼は、自分の妻が美しかったために、自分の妹だと偽り、自分のいのちを守ろうとします。その結果、彼の妻はエジプトの王パロに召し入れられ、アブラムもよくしてもらったために、経済的にはかなり豊かになりました。しかし、彼はそこに閉じ込められてしまいました。救いの担い手として召されたにもかかわらず、飢饉という問題に対して神のみこころを求めることなく、自分の考えで行動したその結果、本来の神の召しから離れてしまったのです。そこで主は介入されます。主はアブラムとその妻のことで、パロとその家にひどい災害をもたらしました。その原因を知ったパロは彼らをエジプトから追い出します。そこで彼らは再び、かつて主に祭壇を築き、天幕を張ったところーベテルとアイの間ーに戻ってきます。
  • 主のあわれみによって、彼が本来いるべきところに戻されましたが、富が増した結果、ロトとの間に争いが起こります。周囲には敵がいます。内部で争えばどちらも命取りです。ですから、アブラムはこの際、互いに分かれて住むようロトに申し出ます。ただしそのとき、彼は不思議な選択をします。その選択の優先権を甥のロトに与えました。本来ならば、叔父であるアブハムに優先権がありますが、譲ったのです。これはアブラムが自分で選ばずロトに選ばせたことは、神にそれをゆだねたと言えます。エジプト行きの一件で彼が学んだのだと思います。案の定、ロトは自分の目で見て、潤った肥沃な土地を選び、そこへ移動しました。

(3) ロトと分かれた後に語られた主のことば(13章)

① 「さあ、目を上げて、あなたがいる所から、北と南、東と西を見渡しなさい。この地全部(※)を、永久にあなたと あなたの子孫に与えよう。」 ※(この地の範囲とは、ユーフラテス川からエジプトの川まで)

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② 「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」

  • 「あなたの子孫を地のちりのようにならせる」という約束をいただきましたが、一向に子どもが与えられません。そこで、アブラムの妻サライが女奴隷を通して子どもをもうけましょうと提案して、不幸にも生まれた子どもがイシュマエルです。それから13年間、神はアブラムに対して沈黙されました。この沈黙はなんでしょう。不信仰に対する沈黙でした。アブラムが99歳になり、妻サライが89歳になったとき、主は彼に現われて、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と言って語られた約束の内容がこれです。

(4) アブラハム99歳の時に語られた主のことば(17章)

「あなたは多くの国民の父となる」、「わたしはあなたの子孫をおびただしくふやし、あなたをいくつかの国民とする」、「カナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。」

  • アブラムも妻のサライも年を重ねて老人になっていて、特に妻のからだは子どもを産むことができないようになっていました。にもかかわらず、主と二人の御使いが彼らを訪れてこう言います。「来年の今頃、サラには男の子ができている」と。

(5) 主と二人の御使いが訪問した時に語られた主のことば (18章)

  • 「アブラハムは必ず、大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、・・主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」と主の思いが記されています。そして、彼らが訪れたちょうど一年後に、イサクが生まれたのです。はじめて神が訳された子どもです。イシュマエルはすでに14歳になっていましたが、彼は神が約束された子どもではありません。イシュマエルは現代のアラブ人です。アラブとイスラエルに戦いが絶えないのは、アブラハムが自分の思いで子どもを設けたからです。
  • イサクが与えられて、彼らはどんなに喜んだでしょうか。しかし、イサクが父のあとについて旅ができる年齢になったころ、最大の試練がやってきます。その試練とは、イサクを神のために「全焼のいけにえとしてささげよ」というものでした。この試練にアブラハムは応答します。そしてイサクを殺そうとしたとき、御使いの声がかかりました。「あなたの手を、その子にくだしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と言って、代わりのいけにえとして、一頭の雄羊を備えておられました。アブラハムはその羊を取って全焼のいけにえとしてささげました。それから主は、再び、彼に対して次のように約束を繰り返されました。

(6) 試練の後に語られた主のことば (22章)

「あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るだろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

  • このように、なんどもなんども繰り返される三つの神の約束ー①土地の賦与の約束、②子孫繁栄の約束、③万民祝福の約束ーは、アブラハム、イサク、そしてヤコブに対しても語られ続けていきます。
  • イサクもヤコブも、この約束を信じることが試みられます。そしてヤコブから生まれる12人の子ども(男子のみ)ーイスラエルの民ーにも引き継がれていくのです。

(7) アブラハムの生涯で実現したもの

  • 神がアブラハムに対して約束されたこれらの事柄のうち、アブラハムがその生涯で実現したものはどれだけであったでしょう。

    ①〔土地の賦与の約束に対して〕、手にした土地は、妻サラの墓地として買ったマクぺラの畑地だけ。しかし、「足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として与えられなかった。」とあります(使徒7章5節ーステパノの説教)。

    ②〔子孫繁栄の約束に対して〕、与えられた子どもはイサクのみ。サラの死後、アブラハムはケトラと再婚します。6人の子供が与えられましたが、彼の生存中に彼らをイサクから遠ざけています。神の約束を受け継ぐ子どもではないからです。

    ③〔万民祝福の約束に対して〕、得たものはまだ何もなかった。この約束は、いくつかの例外を除けば、キリスト以後に本格的に実現する約束です。

  • アブラハムの生涯を通して語られた神の約束、そのほとんどは彼の存命中には与えられませんでした。彼の存命中に与えられたのは、子のイサクと孫のヤコブのみです。果たして子孫繁栄となるのか、彼はそれを目にすることはありませんでした。しかし彼は、神の約束を望んで、目に見えないことを、信じて生きたのです。
  • このことは「見えない事柄」、すなわち、神の約束の実現を確信して生きることの型です。アブラハムはこの「型」を私たちに示してくれた信仰の父なのです。その意味で、いつの時代においても称賛されるべき人物なのです。神とのかかわりにおいて最も称賛されるべきあり方なのです。
  • 信仰とは、私たちが自己実現するための手段ではありません。自分の願っている目標を達成するための手段ではありません。信仰は、この世的な成功、勝利を得るための道具でもないのです。いまだ目に見えない神の約束に対して、アブラハムのようにどこまでも信じて生きることです。目に見えるなにかを達成できなくてもいいのです。自分の生涯においてひたすら神の約束の中に生きること、そこにいつも自分の身を置くこと。これが信仰の完成であり、信仰の勝利なのです。
  • 神の約束は、この世的に見るならば不確かな事柄に見えるのですが、その不確かなことに進んで生きること、これが聖書の言う信仰なのです。
  • この手紙が書かれた時代のユダヤ人クリスチャンは、現実に起こっている迫害ーそしりや苦しみ、財産が奪われるという現実ーによって、神の確かな事柄を受け留めることなく、信仰から離れていく者が多くいたようです。そうした者たちに向かってこの手紙を書いた作者は、今一度、「義人は信仰によって生きる」という真理を伝えて、恐れ退くことがないように警告しているのです。

最後に

  • そこで、最後に、今朝のへブル書のメッセージのテキストを開いてみたいと思います。へブル11章8~12節

    8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
    9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
    10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
    11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
    12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの 数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
    13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

  • 信仰によって」ということばと、「約束」ということばが繰り返し書かれています。「信仰によって」とは、私たちがなにか苦労して与えられるものではなく、ただ神から与えられることを期待することです。ですから、信仰のあかしを立てようとか、なんらかの目に見える結果を出そうなどと焦る必要は全くありません。神はそのようなことを求めてはおられません。「今年のヴィジョンはこうです。そのヴィジョンに向かって前進しましょう。」「私はこんなヴィジョンをもって頑張っています。」ということばを聞くことがありますが、それは聖書の信仰とは異なるものです。神から与えられるヴィジョンは、神ご自身のヴィジョンでなければなりません。あるいは、それに沿ったものでなけれはなりません。神のヴィジョンとは神のご計画の変わることのないマスタープランです。それは私たちが頑張って実現できるものではありません。神が実現してくださることを知り、それを信仰をもって忍耐深く待つことなのです。そのためには神のヴィジョンを聖書を通して、より深く知り、その中に溶け込んで生きることです。それがどのような生活スタイルとなるのか、私たちは問われているような気がします。
  • アブラハムをはじめとする旧約聖書の信仰者たちは、この世においては旅人であり、寄留者のように生きたとあります。この世において何かを実現したいと考えるのは「旅人」や「寄留者」の考えることではありません。本当に実現されるべきものは、私たちの目に見えないところにあるからです。
  • 土地が与えられるという約束を与えられながらも、アブラハムはその生涯において「足の踏み場となるだけのものさえ」与えられることはありませんでした。にもかかわらず、彼がイサクやヤコブとともに天幕生活に甘んじ、忍耐することができのは、彼が、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。しかも、その都を設計し、建設されるのは神だと信じていたからです。そして、その「都」こそ、神の救いの全歴史における究極的ヴィジョンの完成の概念なのです。この「都」の概念こそ、「新しいエルサレム」(黙示録21~22章)であり、回復された「エデンの園」そのものと言えるのです。(脚注)
  • アブラハムが信仰によって見た「都」のヴィジョンを通して、もう一度、信仰とはいったいどういう信仰なのか、神を信じる信仰が与えられているとすればそれはどういうことなのか、「信仰によって」生きるとは、今の自分にどうかかわってくるのか、そのようなことを日々思い巡らしていく必要があるのではないでしょうか。


脚注

  • ヘブル書の著者がアブラハムの信仰の対象として用いられている「都」(「ポリス」πόλις,「イール」עִיר)の概念を理解する鍵として、この手紙で用いられている二つの顕著なことばとの結びの考察が大切であると宮村武夫師は述べています(宮村武夫著作 5「神から人へ・人から神へ」の中に収められている論文『ヘブル人への手紙11章8~11節におけるアブラハムと都について』、109~114頁)。
  • 宮村武夫師の挙げる二つのことばとは、「天の」と「来ようとしている」ということばです。それを私のことばによってノートしてみます。

    (1) 「天の」という語彙
    ●ヘブル11章14節に見るアブラハムが求めている「故郷」は天の都としての「故郷」です。それはヘブル12章22節の「エルサレム」と同様、明らかに「都」の同意語です。それゆえ、「都」も「故郷」も、「天の」(「エポウラニオス」ἐπουράνιος)によって修飾される特徴を持っています(同11:16)。
    ●この「エポウラニオス」(ἐπουράνιος)はヘブル人への手紙の著者が特別に好んで用いる用語の一つです(3:1、6:4)。ヘブル人への手紙の著者がアブラハムを描くにあたって、伝統的素材ばかりでなく、「都」や「故郷」をなどの表現を用いる場合、「上なる天と地」(都と地の対比)の図式を採用しています。

    (2) 「来ようとしている」という語彙
    ●「来ようとしている」と訳されたギリシア語の「メッロー」(μέλλω)の分詞形は13章14節に用いられています。そこでは「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」とあります。「都」の概念を用いながら、キリスト者の存在の特長を述べています。つまり、「都」は来るべき未来の意味として用いられているのです。
    ●ヘブル人への手紙ではこの「来ようとしている」ことが、「救い」「世」「すばらしい事柄」と関連して理解されています(1:14/2:5/9:11/19/10:1/11:20)。この「メッロー」(μέλλω)はこの手紙の終末論を示す言葉の一つであることは明白で、それゆえ、11章8~11節では「都」と「メッロー」(μέλλω)が直接結ばれてはいなくとも、13章14節から、「都」の概念の持つ未来的要素(終末論)を無視してはならないのです。このようにしてヘブル人への手紙の著者は、アブラハムの信仰をより生き生きと、また、より豊かに描いているのです。



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