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自らの霊的貧困さの気づき

11. 自らの霊的貧困さの気づき

1. 「心の貧しい者」であることの気づき

  • 「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)ーこれが、イエスが山上で説教された最初のことばでした。単に「貧しい人」ではなく「心の貧しい人」と言われています。「心の貧しい人」とはどんな人のことを言うのでしょうか。ここで使われている「心の」と訳されたギリシャ語は「霊において」という意味です。つまり神とのかかわりにおける貧しさです。
  • 聖書によれば、人は「霊とたましいとからだ」の三つの部分からなっています(Ⅰテサロニケ5:23)。「霊」とは人に与えられた部分で、神との交わりをすることのできる部分です。この霊が与えられているのは被造物の中で人間だけです。ところが、最初の人間アダムとエバが神の言うことに逆らい、ヘビの言うことを信じてしまったために神とのかかわりのいのちは傷つき、壊れ、機能不全に陥ってしまったのです。
  • 「貧しい」ということばは、ギリシャ語で「プトーコス」、「ちぢこまる、うずくまる」という意味です。自分の力では決して解決できない霊的に自己破産した悲惨な状態を表わすことばです。これが私たちの真相です。このことに気づく者こそ幸いなのです。つまり、自分が神とのかかわりにおいて貧困を極めている者であることを自覚した者こそ、天にあるすべての霊的な祝福にあずかることができるということを、イエスはここで私たちに伝えようとしておられるのです。

2. 使徒パウロの心の貧しさの気づき

  • 「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものです。」というイエスのことばは、使徒パウロにも当てはまります。キリストに出会う前の彼は、厳格なパリサイ人で、律法主義的な生き方のモデルのような人でした。彼がキリストに出会って救われた後に、自分が心底「心の貧しい者であること」に気づくようになります。パウロはどのようにしてそのことを知ったのでしょうか。それは神の律法によってでした。
  • ヒューマニズム(人道主義)の考え方によれば、人間は本来良いものであり、人間の内には善があると考えています。ですから人間は善いことをなすことができると考えます。ところが、聖書はそれとは正反対です。私たち人間は、例外なく、人間の最も深い中心的な部分である霊の部分、つまり神との交信する部分が機能不全に陥っていることを聖書は教えています。しかし多くの人はそのことを知りません。
  • 神の律法はそれ自体は聖なるものであり、良いものであり、永遠に価値あるものですが、私たちのみじめな姿を映し出すことはできても、それを克服させる力はありません。そこに律法の限界があります。つまり、律法には人を救う力はないのです。そのことをパウロはローマ7:10で「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかった」と述べているのです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」(同、20節)というパウロのこの叫びこそ、「心の貧しい者」の叫びなのです。 しかし同時に、彼はキリストにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からみじめな自分を解放してくれることに目が開かれたのです。つまり、いのちの御霊の原理は、律法にはできないことをする力があることを知ったのです。まさに、天の御国はその人のものです。

2011.1.28


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