****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

花婿が去ったその真意

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

15. 花婿が去ったその真意

【聖書箇所】 5章1〜8節

ベレーシート

  • ここでは、5章2~8節の部分を取り上げます。突然、花婿が戸のかたわらに立ち、中に入れてくれるように花嫁に頼みます。ところが花嫁は「私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。」と言い訳をして、「戸をあけておくれ」という花婿の要求を拒みます。そのため花婿が自分でかんぬきを開けようとしますが、花嫁は耐え切れずに戸を開けようと立ち上がります。しかし戸を開けると、花婿はもうそこにはいませんでした。背を向けて去って行かれたのです。花嫁は花婿を探しますが、見つけられません。夜回りにみつかり、花嫁は心傷つけられます。
  • さて、この箇所(5:2~8)をどのように理解したらよいのでしょうか。花嫁は花婿に愛され、最高の賛辞を受けていました。ところがここで、突然、雰囲気が変わります。なぜ花嫁が花婿を受け入れることを拒んだのか。なぜ花嫁は一度拒絶したにもかかわらず、気持ちを変えて立ち上がったのか。なぜ花嫁が花婿のために戸を開けようとした時、花婿が立ち去ったのか。謎です。しかしその謎の中に、花婿の深い真意が隠されているように思います。


1. 「私は眠っているが、心はさめている」

  • 「私は眠っているが、心はさめている」ーこれは花嫁が言っている言葉です。花嫁は花婿の愛の言葉で完全に安息しています。それを「眠っている」と表現しています。しかしそれは何も考えずに、何もしないということではありません。「心はさめている」のです。外なる人は休んでいるようでも、内なる人は常に活動しているのです。
  • ここ2節での「心」はヘブル語の「レーヴ」(לֵב)で、どちらかといえば、理解力、洞察、悟りといった知性や意志の働きと強くかかわっています。心情的、情緒的なニュアンスの強い日本語の「心」とは少々異なりますが、その意味での「心」は4節に「はらわた」を意味する「メーアイム」(מֵעַיִם)で登場します。新共同訳は「胸」と訳しています。
  • 「私は眠っているが、心はさめている」花嫁の閉じられた戸を叩く花婿の声がします。

【新改訳改訂第3版】雅歌 5章2節
「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。
私の鳩よ。汚れのない(תָּם)ものよ。
私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」

  • 花婿の言う「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている」とはどういう事なのでしょうか。花婿は自分の状態を訴えながら戸をたたき、戸を開けるようにと花嫁を促します。ところで、このところでの大きな問題は、花婿がどうしてそんな状態になったのか、花嫁は一切聞こうとはしなかったということです。さらに、花嫁は自分の都合で、言い訳をして戸をすぐにあけようとしなかったことです。ここに花婿と花嫁との間にすれ違いが起こっています。
  • そこで花婿は戸のかんぬきをはずそうと、戸の穴から手を差し入れました。そのとき花嫁の心(「はらわた」「胸」)はただならぬものを感じ、すぐさま起きて戸をあけました。どのくらいの時間が経過したのかはわかりませんが、時すでに遅し。花婿の姿はもうそこにはありませんでした。

2. 戸をたたく花婿(締め出されている花婿)

  • 花婿が戸を叩く姿は、黙示録3章20節とつながります。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの黙示録3章20節
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

  • これは復活のイェシュアが御霊をとおしてラオデキヤの教会に対して語られたことばです。この箇所はしばしば未信者に救いの決心をうながす時に使われるみことばで有名ですが、文脈を見ても分かるように、この箇所はすでに救われている教会の指導者に対して語られています。おそらくこのラオデキヤの指導者は、物質的祝福が神の祝福だと勘違いしていたようです。ですから、主は「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示録3:17)と言っています。自分の霊的欠乏に気づいていない霊的に哀れな指導者に導かれる教会は気の毒です。それゆえ、主が自ら霊的な食物を与えるために戸の外に立ってたたかれたのです。教会のかしらであるイェシュアが、閉じられた戸の外に立っているというのは何と悲しむべきことでしょうか。
  • しかし雅歌の場合の花嫁は花婿と親密であったはずです。その花嫁に背を向けて立ち去った花婿の真意とは何でしょうか。それは、花嫁をある霊的レベルで満足させず、より高い霊的なレベルに招くためであったと考えます。花嫁がさらなる飢え渇きをもって花婿を慕い求め、尋ね求めるようにと招いておられるということなのです。
  • 使徒パウロもその招きにあずかった一人でした。その彼が以下のように語っています。

【新改訳改訂第3版】ピリピ人への手紙 3章10~15節
10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

  • 花婿を知ることにおいてこれで十分ということはありません。主から与えられた祝福で適当に満足していてはならないのです。それは神中心の生き方ではなく、自分中心の生き方です。主は、主を求め続ける者をさらなる領域へと導かれます。「求めなさい(原文は、求め続けなさい)。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見つかります。たたき続けなさい。そうすれば開かれます。」と約束しておられます。これが御国の原則です。花婿を慕うということはそういうことです。しかしこのことは今日の教会において目新しいことであり、ある人にとっては酷でもあるのです。多くの主にある者たちが後ずさりしてもおかしくありません。しかしパウロは、これこそが花嫁の霊性でなくてはならないと述べているのです。

ベアハリート

  • 雅歌の瞑想をしていく中で、20世紀に多くの霊的な影響を与えた人々、たとえば、中国伝道に生涯をささげたイギリスの宣教師「ハドソン・テーラー」、日本の福音派の基礎を築いたイギリスの宣教師「B.F.バックストン」、中国の霊的指導者「ウォッチマン・ニー」らは、みなこの雅歌の中に隠されている宝を掘り起こそうとして、すぐれた著作を残しています。いのちを賭けて宣教した彼らの共通した霊性は、まさに花嫁の霊性です。


2015.8.28


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