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苦難における神のトーヴ

4. 第三瞑想 苦難における神のトーヴ

【聖書箇所】 詩篇119篇68, 71, 72節

はじめに

  • 今回は「苦難における神のトーヴ」、私たちだれもが経験する苦しみの中にも神の善があることを心に刻みたいと思います。昨年の3.11 未曾有の東日本大震災によって多くの方々が犠牲になりました。災害に会われた方の苦しみは今も、そしてこれからも続きます。「震災前」と「震災後」という歴史観的な言葉ができ、日本はこのことを契機に大きく変わりつつあります。
  • 「苦難」には必ず意味があります。しかしその意味はすぐに掴むことはできないかも知れませんが、意味があることを私たちは聖書を通して知ることができるのです。意味を見出し得なければその苦しみから学ぶ事や大きく飛躍したりすることはできません。苦しみの経験をした人それぞれが自分にとっての苦難の意味、苦しみの意義を見出すとき、そこには喜びが湧き上がり、生きる力さえもが溢れてくるのです。そんな体験した人々のことばに耳を傾けてみたいと思います。
  • 詩篇119篇にある三つの節に注目しましょう。これらは一つの段落の中に置かれていますが、そこに「トーヴ」(טוֹב)ということばが三つ使われています。さらに「トーヴ」の動詞「ヤータヴ」(יָטַב)がひとつ使われています。

68 あなたはいつくしみ深くあられいつくしみを施されます。 (前者は形容詞、後者は動詞「ヤータヴ」יָטַבの使役形)
71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです

  • 71節と72節はいずれも「トーヴ・リー」טוֹב־לִיで始まっています。「リー」は「私にとって、私について、私に関して」という意味で、「よいこと、しあわせ」「~よりもまさるもの」という「トーヴ」がその前に来ています。このヘブル語の慣用句「トーヴ、リー」טוֹב־לִיを日常生活で使ってみましょう。私にとって最高、good!!
  • 原語は「トーヴ」ですが、それがいろいろな意味合いをもって訳されています。68節では「いつくしみ深い」、71節では「しあわせ」、72節では「~よりも勝っている」と。ここで71節のみを取り上げてみると、以下のように訳されています。
    【口語訳】苦しみにあったことはわたしに良い事です。
    【新改訳】苦しみに会ったことは、私にとって しあわせでした。
    【新共同訳】卑しめられたのは、わたしのために良いことでした。
  • ここでの作者はすでに苦しみを乗り越え、意味を見出すことができたので、このようなすがすがしいことを告白しているのですが、新共同訳では単なる「苦しみ」ではない、「卑しめられた」のだと解釈しています。「卑しめられる」という苦難―これが最も正しい解釈だと思います。

1. 想像をはるかに越えた苦難の経験

  • ここでの「苦しみ」は、イスラエルの民にとって(特に、ユダ族にとって)、想像を超えるような、想定外の苦難であったからです。その苦しみとは神の民が大切にしていたエルサレムの神殿は跡形もなく破壊され、国を失っただけでなく、バビロンという異国の地の捕囚の民とされる辱めの経験でした。バビロンに捕囚となった者たちの多くは有能な人々でした。
  • バビロンの地ではおそらく灌漑工事の強制労働をさせられていたと思われます。その灌漑した川のほとりで歌った歌があります。詩篇137篇がそれです。

    1
    バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
    2
    その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
    3
    それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。
    4
    私たちがどうして、異国の地にあって【主】の歌を歌えようか。

  • ここには涙を流して嘆き悲しんでいる姿があります。喪失の嘆きです。「バビロン」は神を拒絶し、神を受け入れることなく築かれた繁栄の都市でした。神に選ばれ、神に愛されていた神の民がそのバビロンの捕囚の民とされたのです。これ以上の辱めはありません。その辱めの中で彼らは「悔い改め」の涙を流したのです。神の都エルサレム、エルサレムの別名は「シオン」。彼らのたましいのふるさとであり、神のふところに帰りたい、戻りたいと切に願って流した悔い改めの涙です。この涙は神のみこころにかなったものでした。
    画像の説明
  • 使徒パウロは、悲しみには二つの種類があると述べています。(コリント第二7章10節)。ひとつは、神のみこころにそった悲しみで、それは悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせるものです。この悲しみの涙の現実は、自分が神を認めず、神を忘れ、神のもとから離れたことが間違いだったと認める涙です。詩篇137篇の作者の涙はこの涙でした。しかしもうひとつの悲しみがあります。それは「世の悲しみ」と言われるもので、神に立ち返ることなく、死をもたらします。むしろ神から遠のいてしまうような悲しみです。神を知らないことからくる世の悲しみ、特に、配偶者の喪失はストレスの中でも最も高いと言われています。そうした苦しみを与えた神を決して赦さないと思ってしまうことからもたらされる悲しみです。
  • 人生には苦難や失敗はつきものです。しかしそれは神の視点から見るならば、実り多い祝福への道の入り口なのです。そのことに気づくことが「神のみこころにそった悲しみ」なのであり、それに気づかずにいることが「世の悲しみ」をもたらすことになるのです。
  • 豊臣秀吉といえば、織田信長に仕えて頭角を表わした人物。尾張の国(現在の愛知県)の農家の生まれで、しかも貧民の子として(当初、木下藤吉郎)に生まれ、織田信長の後継の地位を得ると、大坂城を築き、全国の大名を従えて天下統一を成し遂げた人物です。「百姓から天下人」へと至った生涯は戦国一の出世頭と評されています。その秀吉の辞世の句はどんなものであったでしょうか。
    「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
  • ここには露のようにはかなさが綴られています。「浪速」とは自分の築いた大阪、それはだれもがうらやむほどの繁栄のしるしでした。しかしそれは夢に過ぎなかったと悔やんでいるのです。なんというこの世の繁栄のむなしさ、はかなさ、この世のきらびやかさはまやかしに過ぎないことを悟った者の句です。悟った時にはすでに遅しでした。
  • ヨハネの手紙2章15節に「この世とその中のすべてのものに心を奪われてはなりません。 もし、それらを愛するなら、実際には、神様を愛していないのです。」(LB)とありますが、ユダ族の民が苦難の経験をするようになった真の原因も実はここにありました。この世とその中のすべてのものに心を奪われたのです。当時のイスラエルの王たちは他の国と同様の繁栄ができるように、また国を守るために他の国に媚びて同盟を結び、多くの賄賂を贈ったからです。どこからその経費を捻出したかというと、神殿に使われる高価な品、そして神に仕えるレビたちをリストラして神殿から追い出し、浮いた経費をそれに当てたのです。このように、神を忘れ、神を第一とせずに、この世に心を奪われ、この世に媚びた結果がバビロン捕囚という苦しみだったのです。多くの者たちがそのために悲惨な死を迎えました。かつては「美の極み」と言われたエルサレム、全地の喜びとたたえられた神の都が破壊され、都全体が廃墟となりました。そして自分の子ども煮て食べるというきわめて悲惨な状況になったことを聖書は記しているのです。そんな結果になるとはだれひとり考えていなかったのです。
  • 普通なら、ここで多くの人が神がいるならなぜこんなことが起こるのかと思うでしょう。そして多くの場合、私は決してこんなことが起こることを許した神を赦さないという思いをもってしまうのです。もしそうであったとしたら、神の民はここで自ら神と完全に袂を分かったかもしれません。しかしそうにはならなかったのです。なぜそうならなかったのか。そこに神の計画があったからです。神が彼らを苦難に会わせられたのには理由があったのです。その理由とは、彼らをしてより真剣に神を求めさせるためであったのです。
  • そのことを預言者エレミヤがバビロン捕囚の出来事が起こる前に神の民たちに語っていたのですが、そんな話に喜んで耳を傾ける者などひとりもおりませんでした。エレミヤがどのように語ったのでしょうか。それはエレミヤ29章です。エレミヤは神の民イスラエルの人々がバビロンの捕囚の身となることを前提に語っています。

10 まことに、【主】はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
14 わたしはあなたがたに見つけられる。──【主】の御告げ──わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。──【主】の御告げ──わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」


2. 苦しみの意味を見出させた神のトーヴ

  • 神が彼らのために立てた計画―それはやがて平安を与える計画であり、将来と希望を与えるものでした。それは具体的には、神を心を尽くして求めさせて、神を見出させる計画だったのです。バビロンに70年の満ちるころとありますが、その年月は、世代としては3世代かけて神の教え(トーラー)を一から学び直すという取り組みの期間でした。神を真剣に求めさせて、トーラーに基づくライフスタイルを築かせるに必要な期間だったのです。一世代限りのわずかな期間ではありません。三世代かけて取り組むことでもたらされる回復を神はバピロンの地で彼らに与えたのです。この結果が、詩篇119篇にある「トーヴ・リー」でした。
    画像の説明
    すなわち、苦しみの経験は「私にとってはしあわせだった」「私のために良いことでした」という告白です。
  • 神のトーヴとしての苦しみに目が開かれるとき、大きな実を結ぶことになります。しかし反対に、神と喧嘩し、神を赦さないと思うならば、苦難の意味を見出すことができなくなります。神の与える計画はどこまでも「良い計画」なのです。なぜなら、神は良い方であるからです。ですから、良いことしかなさることができないのです。そうした視点から苦難の意味を見付け出さない限り、回復は決して望めないのです。苦しみの中にある神のトーヴ、そのことを信じる者は幸いです。
  • もう一度、最初に戻って、詩篇119篇のみことばをみてみましょう。特に、68節のみことばに注目しましょう。作者は神をどのように見ていますか。

    「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。」

    You are good, and do good;

    画像の説明

  • 神が良い方であるならば、神は良いものしか与えることができないということになります。神が善であられるならば、その神とかかわることによってもたらされることはすべて良いこと、幸いなことなのです。この認識、この信仰こそが主にある私たちのアイデンティティを強くしていくと信じます。

2012.3.25


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