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虫けらのヤコブへの慰め

11. 虫けらのヤコブへの慰め

【聖書箇所】イザヤ書41章1~29節

ベレーシート

●イザヤ書40章は「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」(ナハムー・ナハムー・アンミー)で始まりました。そこではすでに、歴史の終わりに立ち上がって来る「イスラエルの残りの者」に対する「慰めのメッセージ」が語られていると同時に、彼らによって救われる「大勢の数えきれない異邦人」のことも語られていました。「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ」と語っているように、神の関心は「後のこと」つまり「終わりのこと」(アハリート)なのです。今回は41章にある預言を取り上げます。ここでも同様に、「慰めのメッセージ」は引き継がれ、終わりのことが預言されているのです。「慰め」とは「救い」「回復」「再生」「報復」と同義であり、その動機は主の「あわれみ」(ハーナン:חָנַן)にあることは前回述べました。今回は「虫けらのヤコブ」を「鋭く新しい両刃の打穀機とする」という慰めです。

●イザヤ書41章は、以下のように三つの部分から成っています。
(1) 1~ 7節/異邦の民と預言者との法廷での論争
(2) 8~20節/神のしもべ「イスラエルの残りの者」に対する神の確かな慰め
(3) 21~29節/法廷での結審、つまり後に起ころうとする事を告げる神

1. 異邦人と預言者との法廷での論争

【新改訳2017】イザヤ書41章1節
島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ、新しく力を得よ。
近寄れ。そして語れ。われわれは、ともに、さばきに近づこう。

●「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ、新しく力を得よ。近寄れ。そして語れ」という主のみこころを預言者イザヤが代弁し、そして「われわれは、ともに、さばきに近づこう」と、「島々」「諸国の民」である異邦の民に呼びかけている場面です。なぜなら、40章で以下のように語られていたからです。

【新改訳2017】イザヤ書40章11節
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

●ここに、主が羊飼いとして「子羊」と「乳を飲ませる羊」の両方を群れとして飼うとあるからです。「子羊」とは異邦人の群れであり、「乳を飲ませる羊」とはイスラエルの残りの者です。「子羊」にたとえられた異邦人が、41章では「島々」「諸国の民」と言い換えられています。一義的には、当時の強国(アッシリアの勢力)の支配下で翻弄され、苦しみ呻いていた異邦人のことです。預言者イザヤは、主の法廷において、歴史の舞台の主役は一体だれなのかを論じ合おうと呼びかけているのです。同時に、「われわれは、ともに」とあるように、それは異邦人に対してだけでなく、イスラエルの信仰を立ち直らせる問いかけでもあったのです。

●異邦人に対して「わたしの前で静まれ」と「新しく力を得よ」とは皮肉的な呼びかけです。なぜなら、前者の「わたしの前で静まれ」とは、主に信頼して人間的な工作をするなということだからです。イザヤはユダの王ヒゼキヤおよびユダの民に対して、主に真に信頼して「静まる」ことを強調しました。それを実践したヒゼキヤとユダの民は、アッシリア軍によるエルサレム包囲の危機を免れることができたのです(イザヤ36~37章)。そして後者の「新しく力を得よ」とは40章の最後に語られた主の約束ですが、それは人間的な力を越えた刷新的な力であり、「走っても力衰えず、歩いても疲れない」という想像を越えた力です。これは主を待ち望む者にのみ与えられる賜物なのですが、そのことを異邦人と論じ合おうというのです。

(1)「わたしの前で静まれ、新しく力を得よ」

●この主のことばを、すでにイスラエルは経験したのです。以下はその事実です。

【新改訳2017】イザヤ書36章1~5, 8~10, 13~22節
1 ヒゼキヤ王の第十四年のことであった。アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。
2 アッシリアの王は、ラブ・シャケを大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある、上の池の水道のそばに立った。
3 ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、およびアサフの子である史官ヨアフは、彼のところに出て行った。
4 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。『いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。
5 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと言うのか。今おまえは、だれに拠り頼んでいるのか。私に反逆しているが。
8 さあ今、私の主君、アッシリアの王と賭けをしないか。もし、おまえのほうで乗り手をそろえることができるのなら、おまえに二千頭の馬を与えよう。
9 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来である総督一人さえ追い返せないのだ。
10 今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主を差し置いてのことであろうか。主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。』」
13 ラブ・シャケは突っ立って、ユダのことばで大声で叫んだ。「大王、アッシリアの王のことばを聞け。
14 王はこう言っておられる。『ヒゼキヤにごまかされるな。あれは、おまえたちを救い出すことができないからだ。
15 ヒゼキヤは、「主が必ずわれわれを救い出してくださる。この都は決してアッシリアの王の手に渡されることはない」と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。』
16 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリアの王がこう言っておられるからだ。『私と和を結び、私に降伏せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるようになる。
17 その後私は来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行く。そこは穀物と新しいぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地である。
18 ヒゼキヤが、「主はわれわれを救い出してくださる」と言っても、おまえたちは、そそのかされないようにせよ。国々の神々は、それぞれ自分の国をアッシリアの王の手から救い出しただろうか。
19 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムの神々はどこにいるのか。彼らはサマリアを私の手から救い出したか。
20 これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。主がエルサレムを私の手から救い出せるとでもいうのか。』」
21 人々は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。
22 ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である史官ヨアフは、自分たちの衣を引き裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。

●このことを聞いたヒゼキヤは主に祈り、その祈りは直ちに応えられ、しるしが与えられます(37章)。

30 あなたへのしるし(オート:אוֹת)は、こうである。
『今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
31 ユダの家の中の逃れの者(ペレーター:פְּלֵיטָה)、残された者(シェエーリート:שְׁאֵרִית)は、下に根を張り、上に実を結ぶ。
32 エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』

●30~32節は、ヒゼキヤとユダの人々に対する不思議な励ましですが、これは「終わりの時」の「イスラエルの残りの者」に対する励ましと言えます。ヒゼキヤに「食べる」ことのしるし(אוֹת)が与えられたように、「イスラエルの残りの者」(イスラエルの12部族からの144,000人)も額に「神の印(חוֹתָם)」が押されることで、死ぬことなく、王なる祭司として神に忠実に仕え、大勢の数えきれない異邦人に福音を伝えるのです。

33 それゆえ、アッシリアの王について、はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。
34 彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない──のことば──。
35 わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」
36 主の使い(単数=受肉前のイェシュア)が出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。
37 アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。

(2) 歴史の中で起こることはすべて神の支配の中にある

●イザヤ書41章に戻ります。(法廷において)預言者イザヤは異邦の民に問いかけます。

【新改訳2017】イザヤ書41章2~4節
2 だれが一人の者を東から起こし、その行く先々で勝利を収めさせるのか。だれが彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせるのか。彼はその剣で彼らをちりのようにし、その弓で藁のように追い散らす。
3 彼は彼らを追い、難なく進んで行く。まだ自分の足で行ったことのない道を。
4 だれが、最初から代々の人々に呼びかけてこれらをなし、これらを行ったのか。主であるわたしだ。わたしは初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。

画像の説明

●「一人の者」(原文は代名詞の「彼」)とは誰なのでしょうか。それは「ペルシア王キュロス」のことです。「キュロス」はバビロンを一日で征服し、捕囚となっていたユダの民を解放する異邦の王です。しかし異邦の諸国にとって、彼は脅威の的です。イザヤはこの「一人の者」を起こすのは「だれか」と問うているのです。「だれが、これらをなし、行ったのか」という問いかけに対して、イザヤ自ら答えを出しています。その答えとは人間的な力やわざによってではなく、ましてやキュロスでもなく、まさに「初めであり、また終わりとともにある主」です。この主が「一人の者」を起こして、ご自身のわざを成し遂げるのです。歴史の中で起こって来たこと、特に強国と言われたアッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシア、ローマ興亡のすべては、まさに歴史の「初めであり、また終わりとともにある主」の手にあり、「この主の存在を知れ」ということです。

(3) 諸国の民の反応

【新改訳2017】イザヤ書41章5~6節
5 島々は見て恐れる。地の果ては震えながら、近づき、やって来る。
6 彼らは助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言う。

●5~7節には、イザヤの問いかけと答えを聞いた諸国の民の反応が描かれています。確かに彼らは「恐れ」「震え」ましたが、それでもなお、相共に励まし合いながら、偶像の神により頼もうとするのです。諸国の民は危機に会うと決まって互いに助け合って同盟関係を結びます。それが最も安全だと思うからです。イザヤが呼びかけた主の法廷において、彼らは自分たちの言い分を何一つ述べることなく、沈黙しながら、もっと信頼できる新しい偶像を造ろうと互いに『強くあれ』と力づけるのです。

2. 神のしもべ「イスラエルの残りの者」に対する神の慰め

●41章の第二の区分である8~20節には、神のしもべ「イスラエルの残りの者」に対する神のゆるぎない慰めが語られています。これは神の友であったアブラハムの裔(すえ)に対する約束であることを理解する必要があります。これを、クリスチャン一人一人に語られているとする置換神学で読むなら、神のご計画は全く見えなくなります。神の預言とその成就の舞台は歴史である、という理解が必要です。ですから、ここでのイスラエルは「イスラエルの残りの者」であり、彼らに対する終わりの日における慰めが、幾重にもたたみかけるようにして語られています。再度、神の慰めに目を留めましょう。

【新改訳2017】イザヤ書41章8~16節
8 だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。                          
9 わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。
10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
11 見よ(הֵן)。あなたに向かっていきり立つ者はみな恥を見て辱しめられ、あなたと争う者たちは無いもののようになって滅びる。
12 あなたと言い争う者を探しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは、全く無いもののようになってしまう。
13 わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、                                『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。
14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
15 見よ(הִנֵֵּה)。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。あなたは山々を踏みつけて粉々に砕き、丘を籾殻のようにする。                              
16 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主にあって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。                            

(1) 「恐れるな。わたしがあなたを助ける」

●この箇所には「恐れるな」(アル・ティーラー:אַל־תִּירָא)という主の呼びかけが3回も繰り返されています。なぜならイスラエルは神の特選の民だからであり、この慰めはイザヤ書後半で何度も繰り返されます(41:10, 13~14/43:1, 5/44:2, 8/ 51:7)。アブラハムの裔のイスラエルの残りの者が「わたしはあなたとともにいる」(インメハー・アーニー:עִמְּךָ־אָנִי)と約束されているのです。「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(10節)とあるように、神は神が選んだ者たちの最も偉大な保護者です。「右の手」とは神の大能、力を表すヘブル的表現です。「強くし(אָמַץ)」「助け(עָזַר)」「守る(支える、堅く保つ)(תָּמַךְ)」の三つの動詞は、すべて預言的完了形で記されています。つまり、それは将来において確実に目に見えるようにして実現することを意味しています。ここに、イスラエルの残りの者に対する神の一方的な選びの愛が表されているのです。

(2) イスラエルと争う者たちは滅びる

11 見よ。あなたに向かっていきり立つ者はみな恥を見て辱められ、あなたと争う者たちは無いもののようになって滅びる。
12 あなたと言い争う者を探しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは、全く無いもののようになってしまう。

●11節に「見よ(ヘーン:הֵן)」があります。実は15節にも「見よ」があります。ところが、使われている語彙が異なります。「見よ」(ヘーンהֵן)と「見よ」(ヒンネーהִנֵֵּה)の違いは何でしょうか。「ヘーン」は、そのあとに記述されている事柄を強調します。ここでは、アブラハム契約にあるように「あなた」であるイスラエルに対して呪う者たち(反ユダヤ主義)や戦う者たちが、みな神によって必ずのろわれる運命にあることを強調しています。それに対して「ヒンネー」は終わりの日に起こること、終わりの日になされることを指し示す語彙です。

(3) イスラエルはやがて敵を打ち砕く神の道具として用いられる

14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
15 見よ(ヒンネー:הִנֵֵּה)。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。あなたは山々を踏みつけて粉々に砕き、丘を籾殻のようにする。
16 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主にあって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。

●14節でイスラエルが「虫けらのヤコブ」と言われています。「虫けら」という語彙は詩篇22篇6節にもあります。6節の「私は虫けらです」(アーノーヒー・トーラアット:אָנֹכִי תוֹלַעַת)とは受難のメシアです。それはとても人とは思えない、人間の屑、民の恥を意味します。イザヤ書53章2~3節「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」を想起させます。しかしここでの「虫けらのヤコブ」は、完全に無力な状態にあるイスラエルを指しています。それが15節では「見よ(ヒンネー:הִנֵֵּה)。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。あなたは山々を踏みつけて粉々に砕き、丘を籾殻のようにする」とあります。「山々」や「丘」はやがて登場する反キリストとその軍勢の比喩です。イスラエルの残りの者を立ち上げてくださる神が、それらを踏みつけられ、粉々に砕かれるのです。この預言はいまだかつて成就していません。16節後半にある「あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る」ことができるのは、王なるキリストの地上再臨によって実現するメシア王国(千年王国)の前です。おそらく、それは「恵みと嘆願の霊」が注がれることで、彼らが最強の王なる祭司としての務めを果たすことをたとえていると思われます。

●メシア王国が到来すると、サタンが「底知れぬ所」に投げ込まれるため地は癒やされます。川のないところに川が流れ、泉は湧き出し、荒れ地であったところに木が植えられます。まさに、地は「乳と蜜の流れる豊かな地」に回復されるのです。その約束もイスラエルの残りの者にとって慰めです。それが18~20節に記されています。

【新改訳2017】イザヤ書41章18~20節
18 わたしは裸の丘に川を開く。平地のただ中には泉を。                        荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。
19 わたしは荒野に、杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒れ地に、もみの木、すずかけの木、檜をともに植える。
20 それは、主の手がこれを行い、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、ともに悟るためである。

●その慰めの目的は、「主の手がこれを行い、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、ともに悟るため」だとしています。新共同訳はこの箇所を「彼らはこれを見て、悟り/互いに気づかせ、目覚めさせる/主の御手がこれを成し遂げ/イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを」と訳しています。ここには四つの動詞があり、原文通り並べると、イスラエルの民が「見て、悟り、気づかせ、目覚めさせる」ためです。しかも最も重要なことは、主(=イスラエルの聖なる者)の手が、これを創造したという点です。「創造した」は創世記1章1節と同じ「バーラー:בָּרָא」で、神にしか使われない語彙です。それはキリストにある再創造を意味しています。「バーラー:בָּרָא」が「御子(ベーン:בֵּן)・御霊(ルーアッハ:רוּחַ)・御父(アーヴ:אָב)」の頭文字からできていることは注目すべきことです。かくして、メシア王国(千年王国)では地が癒やされることで、文字通り「荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れ、焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなる」(イザヤ35:6~7)のです。エデンの園の回復です。

3. 後に起ころうとする事を告げる神

●8~20節の挿入で中断していた法廷での論争が、21節以降から再開し、結審します。

【新改訳2017】イザヤ書41章21~23節
21 あなたがたの訴えを出せ。──主は言われる──あなたがたの証拠を持って来い。──ヤコブの王は言われる──
22 持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。前の事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれを心に留め、後の事を知ることができるだろう。または、来たるべき事をわれわれに聞かせよ。
23 後に起ころうとすることを告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神々であることを知るだろう。良いことでも悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれはともに見て驚くだろう。

●再度、諸国の民たち(異邦人)に対して問いかけています。偶像が真の神であるとするならば、後に起ころうとする事(終わりのこと)を告げることができるはずである。その証拠を提出せよと訴えています。もしその証拠を示すことができないならば、本当の神ではないのです。まことの神の証拠は、後に起ころうとする事を告げることであり、来たるべき事をわれわれに聞かせることです。このようなことが言える神は、時間と空間を超越した神だけです。その神が、以下のように語っているのです。

ベアハリート

【新改訳2017】イザヤ書46章10節
わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。

上記のみことばを、聖書を読むときに必ず読むことをお勧めいたします。驚くべきことに、旧新約聖書66巻は一つの書であり、神のご計画とみこころ、みむねと目的は一貫しています。その証拠を聖書の中にいくらでも示すことができます。しかし聖書を「置換神学」で読んでいるなら、神のご計画と目的は全く見えて来ません。置換神学での読み方というのは、聖書を霊によって読まず、たましいで読む読み方です。それは神中心ではなく、人間中心の読み方です。みことばを自分の心に意味づけて読む読み方です。ですから、この方法で熱心にディボーションすればするほど、神のご計画はおろか、神のみこころにさえも無関心になるのです。これが置換神学で聖書を読ませるサタンの戦略であり、エックレーシアはまんまとそれにハマっているのです。この危険に私たちは気づく必要があります。

●人がサタンのことばにだまされ信じてしまったことで、サタンは人のたましいに合法的に足場を築くことに成功しました。人の霊は機能不全に陥り、自分では回復不能に陥ったのです。合法的とは、人がサタンの言う嘘を信じ、サタンのことばを食べたことで、契約を交わしてしまったという事実です。契約の縛りから解放されるためには死ぬしかありません。しかし感謝なことに、イェシュアは私たちと一体となるために洗礼を受け、私たちのために死んでくださり、最初のアダムの失敗を終わらせてくださったのです。そして三日目に、死からよみがえって「いのちを与える御霊」となり、私たちの霊の中に内住して、私たちの霊を回復するだけでなく、私たちの霊との交わりを可能としてくださったのです。これが天の御国のたとえにある「良い地」(Secret Place)なのです。 そこにイェシュアのみことばの種が入ることで、多くの実を結ぶ者としてくださったのです。そのことを信じて、すべてに勝るイェシュアの御名である「シェーム・イェシュア」を呼び求めながら、自覚的・主体的・決定的に霊によって生きる必要があるのです。回復された人の霊は、サタンが入れないシークレット・プレイスです。イェシュアの語ったことばは霊です。ますます霊によって神のことばの奥義に触れたいと思います。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.9.14
a:76 t:1 y:2

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