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血を食べてはならない

【補完7】血を食べてはならない


【聖書箇所】申命記 12章15~28節

ベレーシート

  • 申命記12章の後半には、主の祝福として賜わった地において、「いつでも自分の欲する時、獣をほふって食べたいだけ、食べることができること」が記されています。しかし、血だけは絶対に食べてはならないことが繰り返し語られています。すでに、レビ記7章26節にも「あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。」とあります。その理由は、血はいのちだからです。したがって、血は地面に水のように注ぎ出さなければならないとされています。

1. 血を食べる者に対する神のさばき

【新改訳改訂第3版】レビ記17章10~14節
10 また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。
11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
12 それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。『あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。』
13 イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕らえるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。
14 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』


  • 神である主は、人を創造してエデンの園に置かれた時、人に対して「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ」と警告されました。今回の「肉は食べたいだけ食べてよい。ただ血は絶対に食べてはならない。」という構図はとてもよく似ています。
  • 創世記では、「善悪の知識の木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」とありましたが、血を食べた者はどうなるのか。申命記12章には血の取り扱いは記されていますが、食べるとどうなるのかその結果が記されていません。しかしレビ記17章10節には、「わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ」と記されています。同14節にもあるように、血を食べる者はだれであっても、その民から断ち切られるということです。
  • 聖書において「血」は特別な意味を持っています。「血」(「ダーム」דָם)の初出箇所は創世記9章4節です。そこには次のように記されています。

【新改訳改訂第3版】創世記9章3~4節
3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

  • ここでは、「肉は血のあるままで食べてはならない」ということが命じられています。なぜなら、「血はいのちである」からというものです。血の扱いについてはここでは触れられていませんが、「血はいのち」そのものであるがゆえに、食べてはならないという啓示がなされています。肉を食べる時には、必ず血は抜かなければならないのです。いのちである血によっていのちが贖われるという真理が、やがて時代とともに(漸次的に)、特に幕屋におけるささげものの規定の中で啓示されます。「血」はいのちを贖う特別な力を秘めているので、「血」を食することは律法が賦与される前から主によって禁じられていたのです。
  • 主が選ばれた地での礼拝において、イスラエルの民、在留異国人、またレビ人たちもささげられた「聖なる食卓」にあずかることができました。ただ、「血は絶対に食べてはならない」のです。申命記12章はそのことを繰り返し語っています(16, 23, 24, 25節)。それは、イスラエルの民とその子孫にとって「しあわせになるため」であり、このことは主にとって「正しいと見られること」であったのです。
  • モーセの幕屋では、ささげられた動物の血は祭壇の四隅にある角に塗られ、残りは完全に祭壇の回りに、あるいは祭壇の土台の部分に注ぎ出されました。そのことによって初めて人は神に近づくことができたのです。
  • 「血を食べる」という表現は奇妙です。それはおそらく血が肉の中に含まれていることから、肉を食べるとき、血を食べることにもなってしまうので、そうした表現になっているものと思われます。普通、「血」は「赤い水」ですから、「飲む」というのが正しいはずです。
  • 興味深いことに、「飲む」という表現は一義的に「水を飲む」という意味ですが、他に、ぶどうでできたジュース、ぶどう酒を飲むことをも意味します。聖書で「飲む」という動詞の初出箇所は創世記の9章21節です。そこではノアがぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっています。創世記24章では「水を飲む」という意味で使われています。その動詞のヘブル語は「シャーター」(שָׁתָה)で、旧約では223回使われています。他に、神の豊かな恵みにあずかることも「飲む」と表現されます。その場合のヘブル語は「酔う、飲む、潤す」の意味を持つ「ラーヴァー」(רָוָה)で、15回と使用頻度は少ないのですが、神の恵みに酔うことを新改訳は「飲む」と訳しています。その初出箇所は詩篇36篇8節(36:9)です。

【新改訳改訂第3版】詩篇36篇8節
彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。
あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。

【新共同訳】詩編36篇9節
あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す


2. イェシュアの肉を食べ、血を飲む

  • 旧約の律法では「血は絶対に食べてはならない」ということが明示されていますが、それは血が神に属する神聖なものであったからてす。その規定にはキリストの血によってのみ生かされるという真理が隠されていたのです。ですからメシア・イェシュアは、ご自身の肉を食べ、血を飲むことがきわめて重要であることを教えています。ヨハネの福音書6章には「五千人の給食」の奇蹟と、それに続く天から下って来たパンについてのメッセージが記されています。多くの人々はこのことについて、正しく理解することはできなかったようですが、きわめて重要な御国の奥義をイェシュアは語ったのでした。その中から、6章53~58節、および63節を取り上げます。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書6章53~58節、63節
53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。
このパンを食べる者は永遠に生きます。」

63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。


●一節一節がとても深い内容を持っています。それぞれの節の中で際立っている語彙を取り上げてみると以下のようになります。これらは、一つひとつじっくりと味わうべき内容をもっています。

(1) 53節・・「人の子」
(2) 53節・・「肉を食べ、血を飲む」
(3) 54節・・「いのち、永遠のいのち」
(4) 55節・・「まことの」
(5) 56節・・「とどまる」
(6) 57節・・「生きる」
(7) 63節・・「御霊」

●これらは、七日間分(七回分)の瞑想のテーマにすることが可能です。今日、キリスト教会で行われている聖餐式は神と人と交わりの奥義(秘儀)です。「主の祈り」と同様に、儀式化されるといのちは生まれません。それらが意味している内容についての十分な悟りが求められているのです。そのためには、いのちをもたらす御霊の助けが不可欠なのです。


2017.9.22


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