詩13篇の修辞
詩13篇の修辞
「死」の比喩的表現としての「眠り」
「私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。」(詩篇13:3)
- 詩篇13篇には、「死」を「眠り」とするメタファーが登場します。日本の墓にも「永眠」とか、「静眠」といった墓標を目にすることがありますが、「死」を「眠り」とするルーツがこの詩篇に見られます。
- イエスもしばしば「死」を「眠っている」と表現しています。たとえば、ひとつりの会堂管理者ヤイロの娘が死んだとき、「その子は死んだのではなく、眠っているのです。」と言われました(マルコ9:24)。イエスの友ラザロが死んだときにも、「友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」(ヨハネ11:11)と言われました。それを聞いた弟子たちは、眠った状態のことを言われたものと思いました。そこでイエスははっきりと彼らに言われました。「ラザロは死んだのです」と(同、11:14)。
- 使徒パウロもテサロニケの教会に宛てた手紙の中で、「眠った人々のことについては、知らないでいてもらいたくありません。」(テサロニケ第一、4:13)と述べて、キリストの空中再臨のおり、死からよみがえることを記しています。ここにも「死ぬ」ことが「眠る」こととして表現されています。
- 死の状態は、一見、「眠り」と似ています。ですから、「眠る」ことは、「死ぬ」ことを表わす絵画的表現として使われています。しかし本当に寝ているわけではありません。ここで、新キリスト教辞典(いのちのことば社)から「死後の状態」についての説明を掲載しておきます。
確かに旧約聖書は、死が眠りである(詩篇13:3等)と述べている。しかし、眠りは比喩的表現であって、文字通りにとるべきではない。旧約聖書は、死後人間が存在することを明確に教えている。
新約聖書においても、死は眠りであると言われている(マタイ9:24,Ⅰコリント15:18,20,51等)が、人間の生理的な状態を指しているわけではない。「眠り」は死の比喩的な表現である。また、いずれの言及も、眠りは魂ではなく、からだの眠りを指している。人間が死後、その魂が意識的に存在することについて、新約聖書は明確に教えている(ルカ16:19-31)。死後、魂が眠るという説も、全く聖書的根拠はない。この説は、教理的逸脱である。
- ここで大切なことは、からだは眠っているように見えても、魂は生きているということです。主にあって死んだ者はパラダイスで。そうでなかった者は「苦しみの場所で」生きているのです。やがて、主にあって死んだ者は、キリストが来られるとき(空中再臨)に復活して引き上げられて主と出会います。そのとき主にあって生きていた者は新しい姿に変えられて引き上げられます。そして「小羊の婚姻」なる祝宴が行われるのです。しかし、主にある以外の者たちは、最後の審判のときに甦りますが、それは審判のためであり、やがて「第二の死」が待ち受けています。私たちがそのことを認めようが、認めまいが、これが聖書が記している厳然とした事実なのです。
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