詩15篇の修辞
詩15篇の修辞
「ゆるがされない」という暗喩
15:5「このように行う人は、決してゆるがされない。」(新改訳)
15:5「これらのことを守る人は、とこしえに揺らぐことがないでしょう。」(新共同訳)
15:5「これらを行う者はとこしえに動かない。」(関根訳)
15:5「こういう人は、永遠にゆらぐまい。」(バルバロ訳)
〔ヘブル語原文〕 ロー・イモート・レオーラーム לֹא יִמּוֹט לְעוֹלָם
- 詩篇15篇の「揺るがされない」という暗喩は、10:6/16:8/17:5/21:8/30:7/62:2, 6/112:6/121:3/125:1などに見られます。この表現は、現代風に言うなら、「心が折れない」、「信仰がぶれない」、「心が動じない」という不動の比喩的表現です。なにゆえに、揺るがされたり、揺らいだり、よろけたりしないのでしょうか。それは、人が神を信頼しているからです。また神も自分を信頼する者を支えていてくださるからです。
- 「ゆらぐ」(be shaken, fall)と訳されたモートמוֹט(mot)は、旧約で40回、詩篇では26回―詩篇特愛用語と言えますー。
46:2 「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろう(מוֹט)とも」
46:6 「国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ(מוֹט)。」
- しかし多くの場合、以下のように、それを否定する言い方で用いられます。
「神はその中にいまし、都はゆらぐこと(מוֹט)がない。」(46:5、共同訳)
また、しばしば自分が成功しているとき、自分の生涯の絶頂と思えるときに、心の中で傲慢にも、「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」(10:6)と考えたり、「私は決してゆるがされない」(30:7)と言ったりします。しかし詩篇15:5の意味する「決してゆるがされない」ということばの背景には、神の存在と神の支えがあるからだという確信に基づいています。16:8でも「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」と告白されています。「右」とは、「私の右腕」というように自分の最も信頼すべき存在を意味しています。21:7も参照。62:2, 6では「神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」と。また、112:6では「彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられるからである。」とあります。
- 私たちは、周囲の目に見える状況などでなんと簡単にゆるがされたり、揺らいだりすることが多いことでしょうか。しかし、主を見上げるときに、主が私たちの足をよろけないようにしてくださいます。61:9では「神は私たちをいのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない(よろめくことを許さない)」とあります。そうです。「正しい人は決してゆるがされない。(なぜなら) 正しい者はとこしえに(神に)覚えられている」(112:6)からです。
- これらの不動のイメージは、「正しい歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人」(15:2)の場合にのみ適用されます。だとすれば、どこに詩15篇で要求される正しい人がいるのでしょうか。詩篇14篇ではだれひとり「善を行うものはいない」というのが神の人間に対する結論でした。しかし、ただひとつの例外があります。それは神が遣わされた「人の子」です。つまりイエス・キリストこそ、唯一の「正しい人」です。もし、私たちがこの方とかかわりを持ち、その方を知り、その方を信頼し、その方のうちにとどまるなら、私たちも「正しい人」(義人)と認められ、その良い影響を受けて生きる者となります。
「主に信頼する人々は、シオンの山のように、ゆらぐことなく、とこしえにながらえる。」(125:1)
「正しい者はいつまでも動かされることはない。」(箴言10:30)
「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらない愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」(イザヤ54:10)
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