詩33篇の修辞
詩33篇の修辞 パラレリズム(反意型)
- 33:10 【主】は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。
33:11 【主】のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。
- 33:10と11は「反意型パラレリズム」となっています。
「はかりごと」と「計画」ということばが両節共通にあり、10節の「無効にする」、「むなしくされる」という言葉と11節の「とこしえに立つ」、「代々に至る」の言葉がそれぞれ反意語となっています。しかも10節の「無効にする」と「むなしくされる」は同義であり、11節の「とこしえに立つ」と「代々に至る」も同義です。これらの二つの言葉を重ねることでその意味を強調しています。
- 新改訳で「無効にする」と訳された「パーラル」(פָּרַר)は、破る、失敗させる、止める、裂くという意味。口語訳では、「むなしくする」、新共同訳では「砕く」訳されています。旧約では53回、詩篇では5回。民が「主の教えを破」(119:126)りますが、主は「契約を破らない」(89:34)として使われています。
- 新改訳で「むなしくする」と訳された「ナーヴァー」(נָוָא)は、拒む、妨げる、無効とするという意味で、旧約では9回、詩篇では2回使われています。33:10では神が拒んで無効とされるのに対し、141:5では人が神を拒むという意味で使われています。
- 詩33篇では、「【主】が国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。」のですが、それは、さばきと言えるし、恩寵によって、神の「はかりごと」と「計画」に帰依するようにという恩寵の行為とも考えることができます。神の民である私たちは、自分のさまざまな計画を持とうとしますが、それが神のはかりごとにかなわぬ時、神は私たちの計画を砕き、挫折させて、神に立ち返るように導かれます。これは神の子どもに与えられている恩寵です。もしそうした阻止がなければ、私たちは誤った滅びの道に行ってしまうかもしれません。神の拒絶は私たちにとって救いとなります。
- そこで、私たちに求められるは「主を待ち望む」ということです。瞑想はここから始まります。ちなみに、33篇では18節に「見よ」「ヒンネー」(הִנֶּה)という私たちの注意を換気させる用語があります。何ゆえに注意を向けるようにと語っているのかと言えば、それは「主の目は・・主の恵みを待ち望む者に・・注がれる」という事実のゆえです。「注がれる」ということばは「ナーバト」(נָבַט)で、鳥瞰的視野で見るまなざしを意味します。私たちはなかなかそうした視野で物事を見ることが難しいのですが、主なる神は常に鳥瞰的な視野においてご自身のはかりごとをなし、私たちを導かれます。そのことを知ることは希望を生み出します。
- ところで、詩33篇には二つの「待ち望む」という動詞が使われています。一つは、18節の「待ち望む」(「ヤーハル」יָחַל)で、旧約では41回、詩篇では20回使われています。もう一つは、20節の「私たちのたましいは主を待ち望む」の「待ち望む」(「ハーハー」חָכָה)で、旧約では14回、詩篇では2回使われています。
- 前者の「待ち望む」(「ヤーハル」יָחַל)は、将来になされる神の善を信じて、今日を生き抜く力をもたらすような「待ち望み」です。主を信頼しながら、静かに待つ、これが「ヤーハル」(יָחַל)です。その用例は詩篇43篇5節にあります。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、思い乱れているのか。神を待ち望め。」と語りかけています。
- 一方、後者の「待ち望む」(「ハーハー」חָכָה)は、主とともにいることを待ち望むという意味です。私たちは必ずしも主とともにいることを待ち望んでいるわけではありません。詩篇106篇13節では、神とともにいることを待ち望まなかった民のことが記されています。しかしイザヤ30章18節では、神の方が私たちを恵もうと待っておられることを記しています。これはやがてイエスの語られた放蕩息子のたとえ話しに登場する父の姿を彷彿とさせます。父がいつ帰るともしれない息子を待っている心、帰ってきたら再び共に生きることを願って待ち望んでいる心、そんな心持ちこそ「ハーハー」(חָכָה)としての「待ち望み」です。
- 以上のように、主の鳥瞰的なまなざしが注がれている中で、静かに主を「待ち望む」者は、とこしえに主と共にいることを「待ち望む」者でもあります。このふたつはしっかりと結びついていることを喚起するよう呼びかけているのが、この詩篇33篇と言えないでしょうか。
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