詩4篇の修辞(1)
詩4篇の修辞(1)
「御顔の光」という比喩(暗喩)
詩篇4篇にある「御顔の光」という表現は、旧約で5回、そのうち詩篇は4回(4:6/44:3/89:15/90:8)、もう一つはダニエル9:17にあります。詩篇の特愛用語です。
詩篇4:6
「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。」
詩篇44:3
「あなたの御顔の光がそうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」
詩篇89:15
「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」
詩篇90:8
「あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。」
ダニエル9:17
「私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。」
- 「御顔の光」とは神の光であり、闇を照らす光です。光源としての「光」ではなく、「光よ。あれ」と言って造られた「光」のことです。詩篇27:1にある「主は、私の光」(暗喩)という信仰告白にある「光」も同じ意味だと思います。この「光」については「御顔の光」以外にもさまざまな表現があります。
(1) 「愛の光」
(2) 「いのちの光」
(3) 「まことの光」
(4) 「信仰の光」
(5) 「希望の光」
(6) 「永遠の光」
(7) 「天からの光」
(8) 「啓示の光」
(9) 「偉大なる光、大いなる光」
(10) 「やみの中に輝く光」
(11) 「福音の光」
(12) 「すべての人を照らすまことの光」
(13) 「人の光」
(14) 「主の光」
(15) 「救いの光」
- 「光」に対する「やみ」は、この「光」を知らず、理解できず、認めず、受け入れません。ましてや、光に打ち勝つことができません。「世」は、この「光」に対して拒絶反応を示します。
- 聖書のいう「光」とは、このように光源としての光ではなく、神と人とのかかわりの光です。そのかかわりにいのちをもたらす光なのです。それゆえ、この「光」に照らされる時、人は霊の目が開かれ、真理を知り、信仰と希望と愛を与えられるのです。イエス・キリストは言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
- 使徒パウロの回心は、まさに強烈な「天からの光」(シャハイナ・グローリー)が彼を照らしたからでした。私たちも、主のうちにとどまっているためには、「御顔の光」に絶えず照らされている必要があります。
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