****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

贖罪の日とその預言的意味


7. 贖罪の日とその預言的意味

ヨーム・キップール

画像の説明

ベレーシート

  • 今回は、秋の祭りの「贖罪の日」について学びます。一年で最も厳粛な日という意味で、「大贖罪日」とも呼ばれます。ヘブル語の表記は「ヨーム・キップール」(יוֹם כִּפּוּר)です。「ヨーム・キップール」の「キップール」の語源は「カーファル」(כָּפַר)という動詞です。これは「罪を覆い、罪を赦す」という意味です。この日は、第七の月(ティシュレー)の10日(9日の日没から10日の日没まで)に行なわれます。
  • ちなみに、第七の月の第一日目は「ラッパの祭り」、そしてその十日目に「贖罪の日」があり、十五日目から二十一日目までの七日間にわたる「仮庵の祭り」があります。第七の月に三つの祭りが入っていることから、この第七の月は「聖なる月」とも呼ばれます。
  • モーセの律法では、イスラエルの民の成人男子は年三回の例祭のためにエルサレムに集まることが定められています。その三回の第一回目は「過越の祭り」「種を入れないパンの祭り」「初穂の祭り」がセットになっています。第二回目は同じく春の祭りの「七週の祭り」、そして第三回目は「ラッパの祭り」「贖罪の日」「仮庵の祭り」がセットです。特に、秋の祭りは、第七の月の第一日目にラッパが吹き鳴らされた後、人々はエルサレムに行き、十日目の「贖罪の日」で断食をし、十五日目から始まる「仮庵の祭り」の準備をしたと思われます。
  • 主が制定された「例祭」は、すべて神の不変のご計画のマスタープランを啓示しています。春の四つの祭りが示唆する預言的な意味は、メシア・イェシュアの初臨によってすでに実現しています。しかし、秋の三つの祭りが意味する預言的出来事はこれから実現することです。つまり、秋の祭りが意味することはメシアの再臨によってはじめてこの地上に実現することを示唆しています。メシアの再臨には、二つの再臨があることをこれまで何度もお話してきました。つまり「空中再臨」と「地上再臨」です。いずれもラッパが吹き鳴らされます。空中再臨の時には花婿であるメシアが神のラッパの響きのうちに天から下って来て、携挙された「キリストの花嫁」と空中で出会います (Ⅰテサロニケ4:16~17参照)。それは一瞬のうちになされます。死者は朽ちないものによみがえり、そのとき生きている者は朽ちないものに変えられるのです(Ⅰコリント15:52)。これは奥義だとパウロは述べています。携挙は「キリストの花嫁」である教会にとって喜びの日です。一方、メシアの地上再臨の場合にもラッパが吹き鳴らされます。それはさばきを伴いますが、それはイスラエルの民に対する悔い改めへの促しのためです。そして第七の御使いがラッパを吹き鳴らした後にメシアが地上再臨され、メシア王国が実現します(ヨハネの黙示録11章参照)。特に、黙示録11章15節にはこう記されています。「この世の国は私たちの主、およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」と。
  • いずれにしても「ラッパの祭り」の目的は、十日目の「贖罪の日」への備えをさせると同時に、十五日目からの「仮庵の祭り」が近づいていることの備えをさせることです。「贖罪の日」は、神のマスタープランにおいては、キリストの花嫁が携挙された後に到来する反キリストによる大患難を通して、イェシュアをメシアとして受け入れなかったユダヤ人(イスラエルの民)が、民族的に悔い改めて神に立ち返ることを啓示しています。そのような日が必ず来ることを、神が「贖罪の日」を制定することで予め啓示しておられたのです。まずはレビ記23章26~31節を読んでみましょう。

1. 「贖罪の日」(ヨーム・キップール)の規定

【新改訳改訂第3版】レビ記23章26~31節
26 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
27 「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を【主】にささげなければならない。
28 その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、【主】の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。
29 その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。
30 その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。
31 どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。

(1) 「贖罪の日」の特徴

  • 「贖罪の日」(ヨーム・キップール)は、一年の中で最も厳粛な一日です。ですから「畏れの日」とも呼ばれています。安息日と同様に完全休日ですが、安息日と異なる点は、この日は「身を戒める」ことが定められていることです。「身を戒める」こととは具体的にどのようなことをするのかが記されていません。しかしイスラエルの民はこれを「断食すること」だと理解(解釈)したのです(イザヤ58:3, 5)。それで、その日は幼児や病人を除いて完全断食がなされました。水も飲まない、つばも飲み込まないで吐き出す。顔も洗わない、歯も磨かない、ひげも剃らない・・・など。第七の月の第一日目にラッパが吹き鳴らされてから、イスラエルの民は過去一年間を振り返り、神に赦しを請う祈りと悔い改めの日々を過ごしつつ、十日目には「祈りと断食」を伴う悔い改めの祈りに集中する、それが「贖罪の日」でした。

(2) 「贖罪の日」に大祭司がなすべきこと

  • その日、神殿においては、大祭司が年に一度、至聖所に入って務めを果たす特別な日でした。幕屋、および神殿において、年に一度だけ、至聖所に入ることが許されたのは大祭司だけですが、何のために入ったのかと言えば、全イスラエルのための罪を贖う血を主にささげて、民が犯したすべての罪の赦しを得るためでした。その事を、レビ記16章から学びたいと思います。レビ記のテーマはいかにして人々が聖なる神に近づくことができるのか、そのための規定が記されていますが、その中で最も重要な章は16章です。そこには、神の民としてのイスラエルの民族的な贖罪が記されています。個人的な贖罪ではなく、全イスラエルの贖罪だという点が重要です。
  • まず、この「贖罪の日」を取り仕切る大祭司自身が身をきよめる必要がありました。

【新改訳改訂第3版】レビ記16章3~6節、11~14節、18~19節
3 アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、
4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。
5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。
6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。

11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。
12 【主】の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
13 その香を【主】の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。
14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。
18 【主】の前にある祭壇のところに出て行き、その(祭壇の)贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。
19 その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。

  • 大祭司は自分自身とその家族のみならず、贖いのために使われるすべての場所と器具を血によってきよめて、はじめて、以下のように全イスラエルの民の贖罪の務めを果たすことができるのです。
贖罪のための二頭の雄山羊.JPG

【新改訳改訂第3版】レビ記16章7~10節、15~17節、20~22節
7 二頭のやぎ(正確には雄山羊)を取り、それを【主】の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは【主】のため一つのくじはアザゼルのためとする。
9 アロンは、【主】のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、【主】の前に生きたままで立たせておかなけれ
ばならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
17 彼が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。

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20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に(移し)置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ
22 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ

  • アザゼル」(「アザーゼール」עֲזָאזֵל)という語彙は、レビ記16章に4回(8, 10, 10, 26節)登場しますが、実は謎の言葉です。この語彙は「山羊」を意味する「アズ」(עַז)と「立ち去る、消え失せる、からになる」を意味する「アーザル」(אָזַל)の複合語とも考えられます。「山羊が身代わりとして罪を負わされて、立ち去ることで、人の罪が消え去り、からになる」というニュアンスです。新聖書辞典(いのちのことば社)によれば、この「アザゼル」の意味についていくつかの意味を紹介しながら、『全き除去』『罪の赦し』」の意味にとる方が、このやぎの持つ役割から妥当と思われる」と解説しています。つまり、「アザゼルのための山羊」によって贖罪がなされるということが重要なのです。
  • 贖罪の日に、大祭司はイスラエルの民のもろもろの罪をアザゼルのための山羊の上に置き、その羊を荒野に放しました。そしてその山羊が決して帰って来ることがないように、係りの者の手で(=定められた者たちの手によって)、崖から突き落としたようです。実は、この「定められた者たちの手によって」ということが預言的です。
  • 英語ではこの「アザゼルのための山羊」のことを「スケイプゴート」(scapgoat)と訳しています。身代わりの犠牲のための山羊という意味です。たとえば、ナチスが行なったホロコーストは、ユダヤ人をスケイプゴートの対象としました。そのために多くのユダヤ人が犠牲になったのです。実は、神の御子イェシュアも大祭司カヤパの策謀によってスケイプゴートの対象にされました。しかしそれはイェシュアが身代わりとなって、多くの人の罪を赦すための神のご計画を実現するために、カヤパの口を通して神が言わせたものだとヨハネは記しています。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書 11章48~52節
48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然、何もわかっていない。
50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

  • 贖罪の日に、大祭司がイスラエルの民のもろもろの罪をアザルヤの山羊の上に置いてその羊を荒野に放し、その山羊が決して帰って来ることがないように、定められた者たちの手によって崖から突き落としたように、イェシュアも大祭司カヤパによって、同じようにされたのです。

2. 神のマスタープランにおける「贖罪の日」の預言的意味

(1) イスラエルの歴史における「贖罪の日」

  • イスラエルの歴史を概観すると、不思議なことに、全イスラエルがこの「贖罪の日」を実施したという記述がありません。「贖罪の日」に続く「仮庵の祭り」も、イスラエルの民がカナンに入国した後からバビロンから帰還するまでなされたことがなかったとネヘミヤ記に記されています(ネヘミヤ8:17参照)。「仮庵の祭り」がなされなかったとすれば、「贖罪の日」も同様になされなかったと考えるべきです。
  • イスラエルの歴史を概観して見ると、Ⅰサムエル記7章に、イスラエル全家の断食を伴う悔い改めがなされた事が記されています。この悔い改めは最後の士師と言われたサムエルのミシュパート(=霊的政治的指導を意味します)によるものです。主の箱が奪われ、転々と移動を繰り返しながら、キルヤテ・エアリムのエルアザルという家に20年近く安置されていましたが、イスラエルの人々は「主を慕い求める」ようになっていました。サムエルは全イスラエルに「偶像を捨て、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたを敵の手から救い出されます。」というメッセージを伝えました。そして、イスラエルの全家をミツパに集め、罪を告白し、断食をしながら、悔い改めをして神に立ち返らせました。するとそのところにペリシテ人の領主たちが攻め上って来たため、サムエルは主に祈り叫びました。するとその日、主はその叫びに応えられて、ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせて彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされたという話です。
  • サムエルはひとつの石を取ってミツパとシェンの間に置き、「エベン・エゼル」(=エベネゼル、「助けの石」という意味)と名づけました(7:12)。これはサムエルのした預言的行為です。なぜなら、聖書で単数形が意味する「石」(אֶבֶן)とはメシアの象徴だからです(詩篇118:22、イザヤ28:16、ダニエル2:34~35)。この「エベン」(石)こそ、神の御子「ベーン」(בֵּן)なのです。「こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、入って来なかった。」とあります。これも終末の「型」と言えます。つまり、メシア・イェシュアの再臨によって、反キリストが「硫黄の燃える火の池に、生きたままで投げ込まれる」ということの一つの「」なのです(黙示録19:20)。
  • これは一つの型です。つまりどのような「型」かと言えば、悔い改めて主に立ち返るなら、主は必ず立ち上がってくださるという原則の型です。イスラエル全家が悔い改めて主に立ち返ったとき、主が全イスラエルの敵を負かされたという記録は、今の所これが最初で最後ですが、実は本当の最後はこれからです。サムエルの場合は、主の例祭としての「贖罪の日」における悔い改めではありませんでしたが、その精神がサムエルによって実施された形と言えます。歴史は以後、ダビデ、ソロモンへと流れた後で全イスラエルは北と南の二つに分裂します。南ユダ王国では時折すばらしい王(ヒゼキヤ、ヨシヤ王)が登場して、国を挙げての悔い改めをして神に立ち返ったことがありますが、二百年余り続いた北イスラエルの歴史においては、皆無でした。 
  • 全イスラエルではありませんが、バビロンから帰還したユダ族がエズラの指導のもとにみことばを学び、それを理解した後で、「仮庵の祭り」が実施されました。その際、主の例祭の順序とは逆になってはいますが、帰還した民たちが断食をし、自分たちの罪と、先祖たちの咎を告白した出来事がネヘミヤ記9章に記されています。その内容は、「これこれのことをしてください」といった嘆願の祈りは何一つありません。ただただ、神は、自分たちと結んだ契約に対して常に真実であったにもかかわらず、自分たちはなんと悪を行ない続けてきたかということを正しく認識し、そのことが、今、自分たちがペルシアの支配下にあって属州の一つとされ、今なお苦しみの中にあるということを認識した祈りでした。その祈りを要約したことばが、以下のことばです。

【新改訳改訂第3版】ネヘミヤ記 9章33節
私たちに降りかかって来たすべての事において、あなたは正しかったのです。あなたは誠実(「エメット(=エメス)」אֶמֶת)をもって行われたのに、私たちは悪を行ったのです。

  • この祈りはバビロンから帰還したユダの民の祈りです。かつてアッシリヤによって捕囚・離散したイスラエル(10部族)は行方知らずの状態です。分裂したままの全イスラエルはいまだ分裂したままであり、再び、ユダもイスラエルも共に一つにされるのは、メシアなるイェシュアが王として地上再臨される時であり、これからのことなのです。そしてそれは必ず起こります。なぜなら、神がそのように預言しているからです。

(2) 「贖罪の日」の預言的意味

  • この「贖罪の日」の制定の真の啓示は、すでに初臨のイェシュアによって成就されています。ところが、肝心の神の民であるイスラエルの民が、トーラーにあるように民族的贖罪を信仰によって受け取っていないことが問題なのです。すでにそれを行う神殿も、そして祭司制度もありません。どのようにして彼らは自分の贖罪の恵みを考えているのでしょうか。断食という苦行によって罪が赦されると考えているのでしょうか。自分を楽しませるすべてのことを差し控えて、律法に規定された多くの戒めを守ることで、罪を浄化しようとしているのでしょうか。クリスチャンから見ると実に不思議です。彼らはどのようにして罪の責めから解放されるのでしょうか。
  • ヘブル人への手紙の著者は、この「贖罪の日」が意味するところの本当の意味を明らかにすると同時に、律法の定める「アザゼルのための雄山羊」による贖罪の欠陥を指摘しています。その欠陥とは、「年ごとに罪の記憶が戻ってくる」(ヘブル10:1~3)ことにあります。年ごとに犠牲が繰り返しささげられなければならなかったのは、「贖罪の日」の贖いの効力が一年間という期間限定であったからです。しかしイェシュアの血による贖いは、一回の贖いでしかもその効力は永遠に有効なのです。この大祭司であるイェシュアこそすべての者にとって必要な方なのです。
  • さて、神のご計画のマスタープランにおける、今回の「贖罪の日」の預言的な意味をまとめてみたいと思います。この「贖罪の日」が指し示している預言的意味は悔い改めによる全イスラエルの民族的回心の実現です。神の側ではそのためのお膳立てはすでに整っています。しかし、全イスラエルの民の方が未だ整っていないのです。そのことに気づかせ、全イスラエルの民の民族的に悔い改めさせ主に立ち返らせることが、「贖罪の日」が目指していることです。神の民イスラエルが犯した最大の罪は神の御子イェシュアを拒絶しただけでなく、スケイプゴートとして十字架につけたことです。さらには、反キリストをメシアとして信じるようになります。そうした罪に気づかせるために、神は彼らに反キリストによる大患難を通させるのです。それは彼らに未曾有の苦難をもたらします。
  • 七年間の患難時代が置かれているその目的は、神の民であるイスラエルが最終的に神に立ち返るために、どうしても必要な産みの苦しみであると言えます。旧約聖書において、神から離れた神の民であるイスラエルとユダの民の回復を、繰り返し、繰り返し預言しています。そのことを実現するために、神は大患難の苦難という産みの苦しみを与えます。「産みの苦しみ」とは新しい命が誕生するときにどうしても通過しなければならない極度の苦しみのことですが、神のご計画のマスタープランにおいて、神の選びの民が悔い改めて神に立ち返るためには、そのような産みの苦しみを避けて通ることは出来ません。その苦しみは、「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないようなひどい苦難」だとイェシュアが語っておられます(マタイ24:21)。彼らは大患難を通して完全に追い詰められます。そしてその中で自分たちが拒絶したイェシュアこそ、メシアであることを知るようになるのです。具体的には、「恵みと哀願の霊」(ゼカリヤ12:10)が注がれることによって、あるいは主の「息が吹きかけられる」(エゼキエル37章)ことによってです。

3. 民族的回心をもたらす「恵みと哀願の霊」と主の「息」

  • ゼカリヤ書12~14章には、イスラエルの民がどのようにしてメシアを受容するかが語られていますが、12章9~10節と13章1~2節には以下のように記されています。

【新改訳改訂第3版】ゼカリヤ書12章9~10節、
9 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。
10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

【新改訳改訂第3版】同書、13章1~2節
1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる
2 その日、──万軍の【主】の御告げ──わたしは、偶像の名をこの国から断ち滅ぼす。その名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。

  • この預言は「ダビデの家とエルサレムの住民の上に」となっています。すでに北イスラエルの10部族はアッシリヤによって離散しているからですが、神はユダのみならず、イスラエルの全家を一つにされます。そして、彼らは二度と身を汚すことがないようにされるのです。

【新改訳改訂第3版】エゼキエル書37章9~10節、15~19節
9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。

15 次のような【主】のことばが私にあった。
16 「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書きしるせ。
17 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。
18 あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これはどういう意味か、私たちに説明してくれませんか』と言うとき、
19 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする

【新改訳改訂第3版】エゼキエル書39章25、29節
25 それゆえ、神である主はこう仰せられる。今わたしはヤコブの繁栄を元どおりにし、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による。

29 わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。──神である主の御告げ──」

  • すでに、イェシュアが復活して昇天された後に聖霊が傾注しています。それによってメシアニック・ジューと異邦人とからなる「教会」(エクレシア)が誕生しましたが、再度、終わりの日に聖霊が傾注されるその目的は、神の民であるイスラエル(ユダヤ人)を民族的に回心させるためです。反キリストによる大患難をくぐり抜けた1/3のユダヤ人は、キリストの再臨の前に聖霊の傾注によって、「自分たちが突き刺した者(イェシュア・メシア)」と「主を仰ぎ見」て神とメシア・イェシュアが一体であったことに霊の目が開かれます。そして、メシアを拒絶したことがどんなに大きな罪であったかを示されて「激しく泣く」のです。それは、尋常ではない「苦しみを伴ったひどい悲しみ」となります。そうした民族的回心とキリストの再臨とは密接な関係にあるのです。ですから、もしイスラエルの回復と無関係な「再臨運動」があるとすれば、それは聖書的ではありません。
  • マタイの福音書24章31節には「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあります。御国の食卓に集めるためです。このことは次回の「仮庵の祭り」において学ぶ予定です。今回は、「贖罪の日」の制定の預言的な意味が、神の選びの民であるイスラエル全家の民族的な悔い改めを啓示していたことを心に留めたいと思います。それは万軍の主の熱心さによって、将来、必ず実現されるのです。神の救いのドラマはますます緊迫した新しい段階へと入っていくのです。

ベアハリート

  • 神のマスタープランの究極は、メシア・イェシュアによってすべてのものが「一つ」(「エハッド」אֶחַד)となることです。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙1章7~11節
7 この方(御子)にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
8 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。

  • 「いっさいのものがキリストにあって、一つに集められる」というのが神のヴィジョンです。「一つに集められる」という事の中には、天と地がひとつにつながり、神の選びの民が全イスラエルとして「一つ」となり、またユダヤ人と異邦人とが「新しいひとりの人」として造り上げられ、奴隷も自由人もなく、男も女もない、すべてがキリスト・イェシュアによって一つ(「エハード]אֶחַד)となり、神の平和(=天にあるすべての祝福の総称としてのシャローム)がこの地上に実現されるというヴィションです。これは神の奥義であり、神の知恵です。この神のヴィジョンにさらに深く目が開かれるように、祈りたいと思います。

2015.4.19


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