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迫害に備えて、自分自身を武装する

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4. 迫害に備えて、自分自身を武装する

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  • ペテロの手紙第一は、迫害に備えての心の準備をさせるために書かれたものです。
    4章1節の「あなたがたも同じ心構えで、自分自身を武装しなさい。」を取り上げます。「自分自身を武装しなさい」は「ホプリゾー」(ὁπλίζω)の命令形アオリスト中態2人称複数です。この動詞は新約聖書でここ1回だけ使われている語彙です。「あなたがたも同じ心構えで」とは「キリストが肉体においてあなたがたのために苦しみを受けた」ことを意味します。それと同じ心構えで自分自身を武装することが語られています。以下の聖書箇所には、かつてペテロはこのことができなかったことがわかります。

【新改訳改訂第3版】ルカの福音書22章31~34節
31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

  • イェシュアとのやり取りの中に、ペテロがまったく自分自身を武装することができていなかったことがわかります。しかし、イェシュアのあわれみととりなしの祈りのゆえに、ペテロが使徒として生かされているのです。これはなんという恵みでしょうか。使徒パウロも「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」と述べています(Ⅰコリント15:9~10節)。ペテロにしても、パウロにしても、心の痛みがあったのです。しかし、神の恵みとあわれみは彼らの心の痛みを超えるほどに強かったのです。

1. 迫害に備えて自分自身を武装する

  • ペテロはまず「自分自身を武装する」ことがもたらす益(効用)について述べています。それは二つの面においてです。その第一は消極面で「罪とのかかわりを断つ」ということです。ここでいう「罪とのかかわり」とは、3節に記されているように、異邦人たちがしたいと思っていること、すなわち、「好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝など」で、「度を過ごした放蕩」とも言い換えられています(4節)。第二は積極面で「地上の残された時を、神のみこころのために過ごすようになる」というものです。放蕩に走らない生き方は、異邦人の中にあっては不思議に思われ、さらなる迫害をもたらすことになるかもしれません。なぜなら、クリスチャンたちの「罪とのかかわりを断ち」、「神のみこころのために過ごす」歩みが不信者たちの誤りを告発しているように思い、不安と不快を感じさせるからです。

2. 万物の終わりに備えて自分自身を武装する

  • 1~6節では、迫害に備えて「自分自身を武装する」ということでしたが、7節以降では「万物の終わりが近づきました」という事実から「自分を武装する」ことが語られています。「近づきました」と訳されたギリシア語は「エンギゾー」の現在完了形で、「すでに近づいてしまっている、もう来てしまっている」という意味です。つまり、「来てしまってはいるが、いまだ終わりではない」という状態です。この世に対するさばきの時はすでに来てしまっているのです。すでにイェシュアによる十字架の死と復活によって、神のご計画の土台はすでに据えられている。しかしいまだその土台の上に建てられる家は人々の目に隠されているということです。しかし、必ず、神のご計画に基づく「家」は建つのです。それゆえ、「ですから」と続いているのです。
  • 7節には二つの「命令形アオリスト」の動詞がありますが、これらは「心」と「身体」に対する命令です。

    (1) 「心を整えなさい」(「ソーフロネオー」σωφρονέω)
    これは「思慮深くふるまう」ことを意味する動詞です。「心を確かにする」(口語訳)とも訳されます。つまり、現実の生活から遊離した思いではなく、現実生活のただ中において切迫した「終わりの時」を待つことを意味しています。終末の光の下で現実の生活が的確に把握されるという意味での「思慮深さ」「健全な思い」です。


    (2) 「身を慎みなさい」(「ネーフォー」νήφω)
    これも終末の光の下で現実を把握することは「ソーフロネオー」と同じですが、祈りのために身を自制する、節制することを意味しています。泥酔することはもってのほかということです。

  • 個人的な勧めに続いて、教会の信徒相互間における倫理的な勧めが、以下のように語られています。

    (1) 「互いに愛を熱心に保つこと
    愛は多くの「罪をおおう」(「カーサー」כָּסָה)とは、「罪を赦す」(「ナーサー」נָשָׂא)とは同義です。いずれも旧約的表現です。


    (2) 「互いに親切にもてなし合うこと
    迫害のために信徒の生活に変動が生じ場合、互いに「もてなし合う者(複)」(「フィロクセノイ」φιλόξενοι)になるということは、神の家族としての具体的な愛の実践です。


    (3) 「(互いに)仕え合うこと
    「仕え合う者(「デイアコネオー」διακονέωの分詞)」とは、「もてなし合う」ことの具体的な実践として、それぞれに与えられている神の賜物を役立てることを意味しています。神から与えられているそれぞれの賜物は、教会において「互いのために」共有されるべき財産だからです。

  • 以上のことを実践することは、イエス・キリストを通して神があがめられるためなのです。

3. 迫害の祝福

  • ペテロは4章12~16節で迫害の祝福について述べています。その祝福とは「キリストの苦しみあずかる」だけでなく、キリストの栄光の現われるときに「喜びおどる者となる」という祝福です。これは、1章6, 8節の「喜びに踊っている」の語彙と同じです。Ⅰペテロでは3回この「アガッリアオー」(ἀγαλλιάω)が用いられています。この「狂気する喜び」はまさに勝利のしるしです。「終わりの日」の大いなる喜びの前味です。

2016.10.19


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