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退く

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No.4 「退く」

【聖書箇所】

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書6章15節
そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた


Greek; 「退かれた」と訳されたことばは、「アナコーレオー」(ἀναχωρέω)のアオリスト3人称単数形です。この動詞は新約で14回使われています。その多くが、ある場所から立ち退くことを意味していますが、ヨハネの福音書6章15節の1回限りのそれは、より深い(積極的な)意味で用いられています。
Hebrew;「退く」は「ヤーツァー・シューヴ」(יָצָא שׁוּב)。「ヤーツァー」(יָצָא)は本来的には「出ていく」というアウトプットの動詞です。しかし「シューヴ」(שׁוּב)があることで、出て来たところへ戻る(帰る)ことを意味します。「マーラト」(מָלַט)とか「ハーラツ」(חָלַץ)というヘブル語で訳しているものもありますが、どうもニュアンスが異なります。「ヤーツァー・シューヴ」はイェシュアならではの行動パターンなのです。


  • ヨハネの福音書6章15節に「ただひとり、また山に退かれた」とあるように、イェシュアは人里離れた山の中に、ひとりになるために、「また、再び」退かれることを常としていました。これはしばしばひとりになるために、静かな場所に「退く」ことを意味しています。これは働きの疲れをいやすためでもありますが、むしろ退くことで新たな霊的エネルギーを供給するという積極的な意味合いが強いのです。アウトプットのために、インプットをしっかりとするのです。
  • この「インプット」のことをイェシュアは「とどまる」ということばで表現しました。弟子たちに「わたしにとどまりなさい」「わたしのことばにとどまりなさい」「わたしの愛の中にとどまりなさい」と教えられました。御子イェシュア自身が御父にとどまり、御父のことばにとどまり、御父の愛の中にとどまっておられました。ですから、多くの実を結ぶことができたのです。この「とどまり」の型が、イェシュアと私たち(弟子)のかかわりにおいて求められているのです。
  • 詩篇91篇1節は「とどまる」ことを、以下のように表現しています。

【新改訳改訂第3版】詩篇91篇1節
いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。

  • この箇所はヘブル的修辞法の「同義的パラレリズム」になっています。「住む」(「ヤーシャヴ」יָשַׁב)ことは「宿る」(「リーン」לִין)ことです。「いと高き方の隠れ場」「全能者の陰」はまさに「シークレット・プレイス」なのです。これらのことが新約的に表現されると「とどまる」ということになります。この「とどまる」ことを選び取り、それを実際の生活の中で身に着けなければなりません。「とどまる」ことの重要性をどれだけ知っているか、それをチェックするバロメーターがあります。そのバロメーターの

第一は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」というイェシュアのことばの意味をどれほど理解しているかということ。
第二は、主にとどまる時間をどれほど豊かに持っているかということ。
第三は、主にとどまることを何よりも優先しているかということ。

  • 忙しい生活を送っていようといまいと、主の弟子であろうとするならば、上記の三つのことが常に問われ続けます。「退く」(インプットする)ことなく、主の働きをしようとする(アウトプットする)ならば、上からの力は必ず枯渇し、働きが続けられなくなるはずです。主にとどまることを何よりも優先する生活を自ら設計しなければなりません。その生き方を継続することは、何かの働きをすること以上に実は難しいことなのです。

2017.10.21


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