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避けられないアッシリヤの侵略の警告


8. 避けられないアッシリヤの侵略の警告

【聖書箇所】ホセア書 8章1~14節

ベレーシート

  • 1節に「角笛を口に当てよ」とありますが、これは敵であるアッシリヤの来襲が差し迫っていることを警告するためのものです。敵の来襲を「鷲のように」襲うというたとえで予告しています。
  • 「鷲」(ヘブル語で「ネシェル」נֶשֶׁר)は、聖書では、全能の神の手厚い保護や力強さを表す良いイメージとして使われていることが多いのですが(出19:4/イザヤ40:31等)、ここでは全く逆で、敵の圧倒的な勢力を表すたとえとなっています。

画像の説明

1. 差し迫った敵の来襲をもたらす真因

  • そもそも、敵の来襲の真因は、イスラエルの民が主との契約を破り、主の律法に背いたためです。具体的には、主を恐れることなく、主に信頼せず、はかない偶像(大国の力、自分たちが擁立した王、経済的豊かさ、金の子牛をはじめとするさまざまな偶像の神)に頼った結果です。それらを求める動機は生存と防衛の保障のためです。まさに、偶像礼拝とは主の至高の権威と充足性を否定する重大な罪なのです
  • ホセア書8章では、イスラエルの夫である神を「善」と表現しています(8:3)。ここでの「善」という語彙はヘブル語の「トーヴ」(טוֹב)です。それは神の恩寵的かかわりを表わす総称的概念です。新改訳では「善」と訳し、新共同訳は「恵み」と訳しています。
  • 神は良いお方であり、与えることを何よりも喜びとするいつくしみに満ちたお方です。この神を退け、拒絶したことによってもたらされるペナルティーは、再び、エジプトの時のように奴隷とされてしまう(8:13)ということです。これはエフライムに対しても、ユダに対しても変わることのない神の原則です。北イスラエルの場合はアッシリヤの捕囚の民に、南ユダの場合はバビロンの捕囚の民に、と異なりますが、いずれもエジプトで味わった屈辱を経験することになるのです。敵の来襲は契約におけるペナルティーなのです。

2. 人間的画策はすべて徒労に終わるという結末

  • 生存と防衛の保障を神に求めることなく、人間に求めることはすべて失望に終わる運命にあることが警告されています。それがたとえで語られています。

(1) 「彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る」(8:7)

【新改訳改訂第3版】ホセア書8章7節
彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。
麦には穂が出ない。麦粉も作れない。
たといできても、他国人がこれを食い尽くす。

  • これは原因と結果の法則のたとえであり、悪い種を蒔けば、悪い実を刈り取る。たとえ実ったとしても、敵がそれを食い尽くすということが起こる。そこにイスラエルが執っている無益な政策が表されています。「風」は「ルーアッハ」(רוּחַ)、「つむじ風」は「スーファー」(סוּפָּה)で破壊的な力をたとえています。
  • また、麦の「穂」のことを「ツェマハ」(צֶמַח)、「麦粉」のことを「ケマハ」(קֶמַח)と言います。ヘブル的ダジャレです。つまり「麦を蒔いてもツェマハは出ず、ケマハも作れない」ということであり、どんなにあくせく政策を凝らしても、十分な成果が上がらないことを意味しています。

(2) 「ひとりぼっちの野ろば」(8:9)

  • 「エフライム」のことを「ひとりぼっちの野ろば」にたとえています。「ひとりぼっち」とは、主の意に反して他国と同盟関係を結ぼうとしたことによって、自らのアイデンティティ(他国とは区別された主の宝としての民)を喪失した孤立した民という意味で使われています。そのエフライムが強情な「野生のろば」のように気ままにさまよっている姿をたとえています。
  • 「エフライム」(אֱפְרַיִם)と「野のろば」を意味する「ペレ」(פֶּרֶא)に同じ文字が含まれており、ここにもヘブル的ダジャレがあります。野ろばの特性は、自分勝手な道を選んで単独行動をするようです。エフライムは本来、主と共に歩むべく選ばれたにもかかわらず、自分勝手な道を歩むようになった「野ろば」にたとえられているのです。


2015.4.14


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