****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

銀貨三十枚の奥義


118. 銀貨三十枚の奥義

【聖書箇所】マタイの福音書27章3~10節

ベレーシート

●イェシュアがなぜ銀貨三十枚で売られたのか、今回はその必然性について取り上げたいと思います。ユダがイェシュアの死刑が確定してことを聞いた後に自分の過ちに気づき、受け取った銀貨三十枚を返却しようとします。しかしそれが受け入れてもらえずに神殿に投げ入れたこと。そして祭司長たちはこの銀貨三十枚で陶器師の畑を買ってそれを異国人のために墓地としたこと。そして、それらが「預言者エレミヤを通して語られたことが成就した」としていることなどを取り上げます。

【新改訳2017】マタイの福音書27章3~10節
3 そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
4 「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
5 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。
6 祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」
7 そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。
8 このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。
9 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。
10 主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」


1. 返された銀貨三十枚

●前回はイスカリオテのユダがなぜイェシュアを裏切ったのか、そのユダの最期についてフォーカスしました。しかし今回は、祭司長たちと長老たちがユダの返却した銀貨三十枚を何のために使ったのかを見てみたいと思います。そもそも銀貨三十枚は一体どこから支出したものなのでしょうか。おそらく神殿の金庫から支出したものと考えられますが、それが返された時に「血の代価」を神殿の金庫に入れるのは良くないとして、相談して陶器師の畑を買い、異国人のための墓地にしたことが記されています。このことはゼカリヤ書が預言しているのですが、なぜ「預言者エレミヤを通して語られたことが成就した」と書かれているのでしょうか。それは、イェシュアの時代の「タナフ」の預言書の順がエレミヤ、エゼキエル、イザヤになっていたことによるものです。エレミヤは預言者の代表格であったので、マタイはゼカリヤを引用する時に、「預言者エレミヤを通して」と書いたのです。

●出エジプト記 21章32節によれば、「もしその牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない」とあるように、そもそも銀貨三十枚という額は、奴隷のいのちの代価なのです。ですから宗教指導者たちがイェシュアをそのような価値のない者とみなしたということが分かります。しかしそれは人間的な観点、人間的な価値観です。神の観点からするならば銀貨三十枚は決して価値のないものではなかったのです。イェシュアの血は計り知れないほどの価値をもっているのです。

2. ゼカリヤ書11章における預言

●ゼカリヤ書は旧約の黙示録とも言われる難解な書です。今回のマタイの福音書27章9~10節は、明らかに、ゼカリヤが預言したゼカリヤ書11章12~13節からの引用です。特に11章はゼカリヤ書の中で最も難解と言われる章ですが、そのところの文脈を理解してみたいと思います。

画像の説明

●9章と10章は全イスラエルの回復のためにメシアの到来が預言されており、メシア到来の初臨と再臨が予告されています。10章では、メシアが再臨される時にはイスラエルの民は諸国の中で長子的権利を回復します。そのとき「大雨」のような祝福が注がれます。しかし11章では、約束されたメシアが到来(初臨)するときに、そのメシアが愚かな牧者(ユダヤの指導者)によって拒絶されること。その結果として、神殿とエルサレムは崩壊し、神の民イスラエルが世界離散となることが「二つの杖が折られる」という表現で預言されます。そして、その流れの中で「ひとりの牧者」(反キリストのこと)が現われることが預言されています。

(1) エルサレム神殿と町の滅亡(11:1~3)

【新改訳2017】ゼカリヤ書11章1~3節
1 レバノンよ、おまえの門を開け。火がおまえの杉の木を焼き尽くす。
2 もみの木よ、泣き叫べ。杉の木は倒れ、見事な木々が荒らされたから。
バシャンの樫の木よ、泣き叫べ。深い森が倒れたから。
3 牧者たちの嘆きの声がする。彼らの見事な木々が荒らされたから。
若い獅子の吼える声がする。ヨルダンの茂みが荒らされたから。

●11章1~3節の箇所は第二神殿がローマ軍によって破壊されることが預言されていると考えられます。「レバノンの杉の木」や「バシャンの樫の木」はエルサレムの神殿や宮殿などを造る際に用いられた木材です。それらが焼き尽くされるということは、エルサレムが荒らされることを語っています。その原因は「牧者たち」であるユダヤ人の指導者たちにあるということが語られています。

(2) 羊を売る者、買い取る者(11:4~6)

【新改訳2017】ゼカリヤ書11章4~6節
4 私の神、【主】はこう言われた。「屠られる羊の群れを飼え。
5 これを買った者は、これを屠っても責めを覚えることはなく、これを売る者も、『【主】がほめたたえられるように。私は豊かになった』と言う。その牧者たちは羊をあわれまない。
6 それは、わたしがもはや、この地の住民にあわれみをかけないからだ──【主】のことば──。見よ、わたしは、人をそれぞれ隣人の手に、また王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは
彼らの手からこれを救い出さない。」

●エルサレムに住む者たちは「屠られる羊の群れ」であり、エルサレムの滅亡に伴い滅ぼされる運命にある民です。指導者たちが罪を犯せば、その影響は民たちにも及びます。そのために、主はエルサレムの民全体の罪のゆえに「屠られる羊」と見なし、敵の手に渡されるのです。ですから、この羊を「買った者は、これを屠っても責めを覚えることはなく」と表現されています。忍耐の限りを尽くして神の民を養って来られた神にとって、最後の切札として遣わしたメシアが拒絶されることはどんな思いだったでしょうか。イェシュアがエルサレムを前にして嘆かれたのは、まさにこのことのゆえでした。

【新改訳2017】マタイの福音書 23章37~39節
37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

●神が遣わされたメシア・イェシュアを拒絶することによってもたらされる結果は、エルサレムが「荒れ果てたままに見捨てられる」ということです。そして、彼らが自ら悔い改めて「『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで」は、再びメシアと出会うことはないと預言しています。

(3) メシアを拒絶したゆえに折られた「二本の杖」(11:7~14)

【新改訳2017】ゼカリヤ書11章7~14節
7 私は羊の商人たちのために、屠られる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、もう一本を「結合」と名づけた。こうして私は群れを飼った。
8 私は一月のうちに三人の牧者を退けた。私の心は彼らに我慢できなくなり、彼らの心も私を嫌った。
9 私は言った。「私はもう、おまえたちを飼わない。死ぬ者は死ね。滅びゆく者は滅びよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」
10 私は、自分の杖、「慈愛」の杖を取って折った。私が諸国の民すべてと結んだ、私の契約を破棄するためであった。
11 その日、それは破棄された。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが【主】のことばであったことを知った。
12 私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。
13 【主】は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。
14 そして私は、「結合」というもう一本の杖を折った。ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破棄するためであった。

●メシアを拒絶する結果を、神はゼカリヤの「二つの杖を折る」という象徴的行為によって、そのことを預言しています。

①「慈愛」という杖が折られる(10~11節)
●「慈愛」と訳されたヘブル語は「ノーアム」(נֹעַם)で、口語訳は「恵み」と訳しています。使用頻度は7回と少ないのですが、神の「トーヴ」(טוֹב)の意味合いに近いニュアンスを持っているように思います。詩篇27篇4節にあるダビデの“One Thing”の中で、ダビデは「私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その家で思いにふけるそのために」とあります。ここにある「麗しさ」が「ノーアム」(נֹעַם)です。「主の麗しさを仰ぎ見る」とは、主の美の極み、その快い心地よさ、恵みに酔いしれることを意味しています。主の宮においてその麗しさを仰ぎ見ることができるという「杖」が折られるということは、神との交わりの象徴である主の宮(エルサレム神殿)が破壊されてしまうことを意味します。神の民が神殿を失うことは神の民としてのアイデンティティーの喪失を意味するのです。

②「結合」という杖が折られる(14節)
●もう一つの「結合」という杖が折られます。「結合」と訳されたヘブル語は「エハッド」(אֶחַד)です。「ひとつ」という意味の語彙ですが、この杖が折られるということは、本来一つの羊の群れである神の民が世界離散することを預言しています。事実、ローマの圧政下、エルサレム包囲網の最中にあるユダヤが内輪もめし、四つのユダヤ人グループがエルサレムの管轄権をめぐって内部争いを起こしていたことが、世界離散を促進させる要因となったという経緯があります。まさに、「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます」(ルカ11:17)と言われたとおりです。

●流れとしては、上記の①「慈愛」と②「結合」の杖が折られるという間(12~13節)に、今回のマタイの預言が挿入されているのです。つまり、イスラエルの民がメシアを拒絶しただけでなく、メシアを銀貨三十シェケルで売り渡し、その金で陶器師の土地を買うということが預言されているのです。そこを再度取り出すと、

12 私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。
13 【主】は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。

●12~13節には以下のことばがあります。

①「私」・・「ゼカリヤ」(=「主」の型として)
②「彼ら」(あなたがた)・・イスラエルの指導者たち
③「宮の陶器師」・・口語訳は「宮のさいせん箱」、LIBは「神殿の献金箱」と訳されています。
④「尊い価」・・新共同訳は「見事な金額」、KJVはa goodly price, NKJVはprincely price, NIVはthe handsome priceと訳されています。handsome は「かなりの、気前のよい」という意味。

●銀三十ということが、なぜゼカリヤ(イェシュア)がイスラエルの指導者たちから値積もりされた「尊い価」であるのでしょうか。これが今回の焦点です。銀三十シェケルが「尊い価」と訳された語彙は「尊い、みごとな」を意味する「エデル」(אֶדֶר)と「栄誉、宝」を意味する「イェカール」(יְקָר)からなっているのを見ると、単に価値が高いというイメージではないことが分かるのです。「三十」のヘブル語は「シェローシーム」(שְׁלֹשִׁים)です。「三」は「シャーローシュ」(שָׁלֹשׁ)で、その語源である動詞「シャーラシュ」(שָׁלַשׁ)は「三度する、三日目にする」という意味で使われます。「三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝4:12)ともあるように、「三」は神と人、人と人とを結びつける確かな約束のあかしの数であり、拡大と増幅をもたらす無限な神の数でもあるのです。したがって「三十」はその倍数でなおさらそのことが強調されている数と言えます。つまり、銀三十(銀貨三十シェケル)は神の創造的な数と言えるのです。モーセの幕屋にも贖いを意味する銀(「ケセフ」כֶּסֶף)が多く使われているのです。

3. 幕屋に見られる「銀」と「三十」に隠された奥義

●イェシュアの「血の代価」としての「銀貨三十枚」は奴隷のいのちの代価です。三十という数は人間的な観点からすると少ないかもしれないですが、神の観点からするなら「尊い価」とされているのです。使徒パウロは「この世の知恵」ではなく、「神の知恵」について語っています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙2章6~8節
6 しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。
この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~9節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

●自らを低くして、十字架の死にまで従われたイェシュアが、神によって上げられて、すべての名にまさる名を与えられたのであれば、同様に、人によって銀三十に値積もりされたとしても、神によってそれをはるかに超えた尊い価とされることは至極当然のことです。ゼカリヤ書ではそのように預言されていたのです。

【新改訳2017】マルコの福音書 10章45節
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

【新改訳2017】Ⅰテモテへの手紙2章6節
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

●神はイスラエルの民の一人当たりの贖いの価を半(1/2)シェケルとしました。とすれば、ユダヤの指導者たちによって値積もりされたイェシュアの三十シェケルはその六十倍になります。これは幕屋の外枠の六十本のアカシヤ材の柱頭に相当します。またレビ記27章では、人が「終身の誓願」を立てるなら、例えば20~60歳までの男子の場合(イェシュアもこの範囲に入ります)は、銀五十シェケルの価となります。それは一人当たりの贖いの価の百倍にもなります。これは聖所で人には見えない96枚の板の台座と仕切りの垂れ幕を支える4本の柱の台座の数(96+4=100)に等しいのです。

画像の説明

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●銀の台座は1タラントの重さがあり、それをシェケルに換算すると3000シェケルになります。したがって聖所の板の部分の96個の台座の合計は(3000✖96=)288000シェケルとなります。288000という数は144000+144000の和に等しいのです。144,000人はヨハネの黙示録の7章と14章に登場します。7章の144,000人は教会が携挙された後に、神に守られるしるしを与えられて「御国の福音」を告げ知らせるイスラエルの象徴数です。これは12✖12=144の千倍の数です。ヘブル語に「千」よりも大きい数の単位はありません。また14章の144,000人はすでに携挙されたキリストの花嫁である教会の象徴数です。反キリストの大患難時代に144,000人のイスラエルによる御国の福音宣教によって救われる多くの異邦人がいます(黙示録7:9~17)。その人たちは殉教して天に挙げられるのですが、教会とは別です。その人たちは至聖所と聖所の仕切りの幕を支えている柱の台座4本分に当たる12,000という数に象徴されています。このように幕屋で銀が使われている箇所において、銀の価は「30」、あるいは「3」ですべて割り切れるのです。イェシュアが値積もられた「銀貨三十枚」は、メシア御国においてさらなる増幅と拡大を繰り返して、やがてはアブラハムに約束された「あなたの子孫はこのようになる」ということが実現されるのです。

【新改訳2017】創世記15章5節
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

●これが神の隠された奥義であり、神の知恵なのです。まさにイェシュアの血は無限の価値を有しているのです。増幅された神の贖いの民は、「種まきのたとえ」(マタイ13章)の中の「良い地」そのものです。その良い地はキリストのみことばの種によって「あるものは倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍」の実を結ぶのです。

ベアハリート

●最後に、ユダヤの指導者たちは相談して、返金された「銀三十」で「陶器師の畑」を買いました。そして、この畑を「異国人のための墓地にした。このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている」とあります。「異国人」と訳された語彙は「クセノス」(ξένος)の複数形で,ユダヤ人の指導者にとっては「旅人、外国人、よそ者」という意味です。彼らにとってはガリラヤ出身のイェシュアも単なる「よそ者」でしかなかったのです。

●「陶器師の畑」は「血の畑」と呼ばれていました。なぜならその場所は、神殿の動物のささげものや死体を焼却する場所でした。またかつてそこはモレクに自分たちの子どもをいけにえとしてささげた場所です。エルサレムの南西の「ベン・ヒノム」の谷にある「ゲヘナ」は、この「ベン・ヒノム」に由来します。しかしこの世の終わりには、無限の価値をもったイェシュアの血の代価によって、この「血の畑」と呼ばれる畑から、多くの異邦人たちが復活するのです。ユダヤの指導者たちが「血の代価である銀貨三十枚とそれによって買い取った血の畑」の話の中に、これからの神のご計画の筋道が見えて来るのです。神によってイスラエルも異邦人も、天にあるものも地にあるものも、すべてがイェシュアによって一つに「結合」(אֶחָד)されるのです。

「待ち望め【主】を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め【主】を。」

(詩篇27:14)

2021.11.28
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