****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

2. 「イェシュアは大祭司です」


2.「イェシュアは大祭司です」

べレーシート

(1) 祭司とはなにか

  • 今回は「イェシュアはキリストです」という説教シリーズの第二回目で、「イェシュアは永遠の大祭司」であるということを学びます。その前に、「祭司」(ヘブル語の「コーヘン」כּוֹהֵן、ギリシア語の「ヒエリュース」ἱερεύς)とはどのような人で、どんな務めが与えられているかについてふれてみたいと思います。「祭司」とは「神に仕える人」です。「仕える」といっても神のためになにかをすることではありません。神に仕える祭司とは、神とともに歩み、神と一つとなるためにいつでも神の御前にいる人のことです。多くの時間を神とともに過ごすことで、神によって満たされる人のことです。そのことによって、主を知り、主と一つとなり、主がその人を通して現わされるようになる、これが祭司の務めです。
  • 以下の人々、特に①~⑦までは「祭司」と呼ばれていませんが、彼らは事実上の祭司です。

アダム・・最初の人であるアダムは神のかたち(似姿)として神とともに歩むべく祭司的務めをする存在として造られました。祭司的存在とは、絶えず神の臨在の中にいる存在です。そして、その神のかたち(=祭司的務め)は彼の子セツに受け継がれました。
エノク・・神とともに歩みました(自発的)・・「歩む」に「ハーラフ」のヒットパエル態が使われています。
ノア・・・神とともに歩みました(自発的)・・同上。
アブラハム・・主から「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と言われ、「歩む」(ハーラフ)の頭文字の「へー」(ה)が名前の中に組み入れられて、「アブラム」から「アブラハム」へと改名されました。つまり、アブラハムは神の御前に完全な信頼をもって歩むようにと召されたのです。
イサク・・父アブラハムといつもいっしょであることで、神の御前に生きていました。
ヤコブ・・神の主権的な恵みによってイスラエルと改名され、神の臨在の中で過ごすようになりました。
モーセ・・神に召された後には、常に主の前にいる者となりました。シナイ山では40日間、山に留まり、神から律法を授けられました。長く神と話したため彼の顔は神の栄光の輝きを放っていました。
⑧イスラエルの全員(祭司の国) ⇒特にレビ族は、イスラエルの中で特別に祭司職を与えられました。
⑨詩篇の作者たち・・ダビデも含めて(ダビデは王でありながら、同時に祭司でした)。

  • そもそも「祭司」(「コーヘーン」כֹּחֵן)は、「主の前に立って(アーマドעָמַד)、仕える(シャーラットשָׁרַת)」(申命記10:8)者ーつまり、神と人との間に立つ仲介者を意味します。モーセの律法賦与以前では、父親が一家の祭司となっていました。しかし律法の賦与以後は、レビ族、すなわちアロンとその子どもたちが専門的な祭司職を担うようになって行きました。

(2) 預言者、大祭司、王のかかわり

  • 油を注がれて、神の働きを分与された三つの主要な務めは預言者、大祭司、そして王でした。これらの務めの中で祭司の務めが第一であり、預言者と王の務めを導きます。つまり、神の代理者として神の民を導き支配する王の務めも、また、神のみことばとそのみこころを正確に民に告げる預言者の務めも、祭司の務めにすべてがかかっています。それゆえ、祭司的な務めをする者はきわめて重要なのです。特に、祭司の中でも「大祭司」は祭司職においては最高峰にいる存在でした。最初のアダムは祭司であり、最後のアダム(イェシュア)も祭司なのです。

1. 大祭司に対する厳しい規定

(1) 神が求められるのは常に「完全さ」

  • 祭司職にある人々は、この世の事柄から離れて、神への礼拝に関する非常に厳しい規定を守らなければなりませんでした(レビ21:4~23)。祭司は特殊な装束を身に着け、祭司としてのしるしを身に帯びます。祭司が自らを聖としなければならないのは、彼らがいけにえをささげる仕事にかかわっているからです。いけにえの血を神にささげるのは祭司特有の仕事でした。「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、・・また血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはなかった」からです(ヘブル9:22)。そのために、祭司の任職の儀式では聖別のために血が祭壇から取られて、祭司の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指につけられます。さらに、祭司の装束には血が降りかけられます(レビ29:1~21)。したがって、聖別の儀式やささげ物の儀式では、すべてが血まみれという状態になります。
祭司の服装.PNG
  • 祭司の装束に関して、特に、大祭司の装束は(右図)手の込んだものでした。興味深いことに、衣裳を「着る」にあたるヘブル語の元々の意味は、「被う」「隠す」です。罪を犯して恥を受けているアダムとエバを被うために、神は動物の皮衣を作って「着せ」ました(創世記3:21)が、そこで使われているヘブル動詞は「ラーヴァシュ」(לָבַשׁ)です。ヒフィル(使役)態で「着せる、まとわせる、覆い隠す」の意味です。いけにえをささげる祭司たちが身に着ける最も基本的な装束は白い布ですが、それは神のきよさを表わしています。それはあたかも、祭司が神ご自身のご性質に被われているかのようです。もし、この被いなしに神に近づくならば、恐ろしいさばきを招くことになります。
  • 裸はイスラエルにおいては許されません。ましてや神殿に近づくときには決して裸であってはならないことなのです。この理由から、幕屋には階段というものがありませんでした。階段があると、祭司が装束を身に着けてかがんだときに肌の一部が露出する危険があるからです(出エジプト20:26)。後の時代に階段が必要となるほどの神殿が建てられると、祭司は装束の下に麻布で作ったズボンをはくようになります(同、28:42)。
  • しかし唯一の例外があります。聖書の中で、祭司(しかも大祭司)が裸でいけにえをささげ、神に受け入れられている箇所が一つだけあります。それはカルバリの丘です。イェシュアが十字架で磔にされたとき、イェシュアはすべて脱がされました(ヨハネ19:23)。しかし、この方こそ、人類史上はじめて神の前にただご自身の義によってのみ立つことのできた方です。この方に祭司の装束は不要でした。なぜなら、イェシュアは全き神の御子として、「悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司」(ヘブル7:26)として、とこしえの祭司として(同、7:17)、ご自身の血をささげられたからです。このキリストのいけにえが被いとなって、私たちは今、神の御前になんらはばかることなく立つことができるのです。私たちの衣はキリストの血潮によって白く洗われたのです(黙示1:5/7:14)。ここに大祭司イェシュアの「さらにすぐれた」務めがあります。
  • イスラエルの民がエジプトを出てシナイ山で神と契約を結びました。そのとき神に近づくための礼拝規定が定められました。それによれば、神へのいけにえ、神へのささげものには、傷のないもの、完全なものが必要でした。なぜなら、神が求められるのは常に「完全さ」(「ターミーム」תָּמִים)だからです。この「完全さ」は神と人との仲立ちをする祭司たちにも求められました。しかしこの祭司職制度(世襲制)ははじめからさまざまな欠陥をもっていただけでなく、イェシュアが来られた時代には祭司制度による腐敗がはびこってしまっていたのです。イェシュアの宮きよめ事件はそのことをあかししています。

(2) 新たな系譜による祭司職

  • そのために、長い間にわたって連綿と続けられてきた祭司制度は完全に廃止され、全く新しいことが神によって立ち上げられたのです。それまでの流れを根底からひっくり返すような新しい祭司が起こされたのです。神はこれまでの世襲制による祭司職制度に代わる、全く異なる系譜による祭司職を打ち建てられました。全く別のサイトというのは、レビ部族からではない大祭司。つまり、王の職務を司っていたユダ部族からでした。その系譜のルーツに「メルキゼデク」という人物がいます。「メルキゼデク」とは、サレム(エルサレムのこと)の王であり、アブラハムを祝福した祭司です。年代としてはイェシュアが登場する2千年前です。

画像の説明

  • ダビデはユダ部族の王でしたが、彼は礼拝を改革するという祭司としての務めもしていたのです。その祭司としての務めは、本来の祭司たちのように動物をほふったりすることではなく、音楽による賛美のささげものをした祭司でした。祭司が着る「亜麻布のエポデ」を着ていたことが聖書にしるされています。ダビデは神の箱をシオンの丘に運び入れる時には、そのエポデを脱ぎ捨てて踊っています。このダビデ王がしたことは、やがて遣わされる救い主の預言的啓示と言えます。
  • 王であることと同時に、祭司であることは、本来、律法ではゆるされていません。サウル王がサムエルの到着を待たずに祭司の務めをしてしまったことで、彼は神から王位を剥奪されています。王でありながら、祭司としての務めをなすその予型がメルキゼデクであり、それがダビデに受け継がれ、さらにイェシュアへと流れて行きます。つまり、イェシュアはレビ族による世襲的祭司制度とは異なる系譜によって、祭司としての務めを完成されたのです。

2. さらにすぐれた務めをしておられる大祭司イェシュア

  • 新約のへブル人への手紙には、その手紙を特色づけているキーワードがあります。それは「さらにすぐれた」(あるいは、「よりまさった」という訳もあります)という言葉です。へブル書の中には「さらにすぐれた」という表現が10回ありますが、そのうち、大祭司であるイェシュアについて言われているのは7回もあるのです。どの点が「さらにすぐれた」面なのでしょうか。

(1) 完全な、罪も汚れもない大祭司。自分のために、また人々のために毎日いけにえを捧げる必要のない方。つまり一回的な完全な贖いがなされた。しかも、永遠に有効。
(2) キリストご自身が私たちのための罪のいけにえとなられた。それゆえキリストを持つことにより、いつでも、大胆に、神に近づくことができる。
(3) キリストはいつも生きていて、神に近づく者のためにとりなしの務めをしておられる。
(4) 神の律法を私たちの思いの中に入れ、私たちの心に書きつけて、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という約束を実現する。

  • 上記の点こそ、復活された大祭司イェシュアの「さらにすぐれた務め」の内容であり、古い祭司制度がなしえなかったことなのです。

3. あわれみ深い大祭司イェシュア

  • ヘブル書を特徴づける重要なことばがあります。ヘブル書は全13章ありますが、1章と11章を除くすべての章に登場する名詞があります。それは「大祭司」(「コーヘーン・ハッガードール」כֹּחֵן הַנָּדוֹל)という言葉です。すでに、この手紙のキーワードは、「イェシュアを仰ぎ見る」こと、「イェシュアから目を離さないでいなさい」というものですが、換言するなら、「大祭司であるイェシュアから目を離さない」ということがヘブル人への手紙の主要なメッセージなのです。

(1) あらゆる点で、私たちと同じになることの必要性

【新改訳2017】ヘブル人への手紙2章17節
したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。

  • 「したがって」(新改訳改定第三版までは「こういうわけで」と訳されていました)と訳されたギリシア語の「ホセン」(ὅθεν)は、前の節を受けて「それゆえに」、「だからこそ」とも訳せる接続詞です。そして原文には「イェシュアはあらゆる点で私たちと同じようになることがどうしても必要であった」という文章が続いているのです。原文では最初にくることばが強調されます。そのことばとは「オフェイロー」(όφείλω)で、「~する義務がある、~せねばならない」という意味の動詞です。つまりイェシュアは、あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることがどうしても必要だったのです。 それは特に私たちの罪の宥めのためにどうしても必要だったのです。それはすなわち「からだ」を持つことです。なぜなら、血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。
  • しかし、「私たちと同じになる」という意味は、単に私たちと同じ人間としてのからだ(肉体)を持って罪を赦すということだけではありません。そこにはもっと深い意味が隠されているように思います。受洗するということは、イェシュアの場合は「私たちと一体(ひとつ)となること」の本格的なスタートを意味しますが、私たちの場合は「イェシュアと一体(ひとつ)となること」の本格的なスタートを意味する一回的な出来事を意味します。イェシュアが私たちと一体となることについて、もう少し詳しく取り上げてみたいと思います。

(2) あわれみによる連帯の力

一体.PNG
  • 「あわれみ」、英語ではコンパッション(Compassion)。このことばが意味することは、「ともに苦しむこと、ともに耐えること」です。あわれみは、傷ついているところへ赴かせ、痛みを負っている人々のところに赴かせ、失意や恐れ、混乱や苦しみを分かち合うようにさせます。また、悲惨の中にある人とともに叫びをあげ、孤独な人とともに悲しみ、涙にくれる人とともに泣くように私たちを促します。それはまた、弱い人とともに弱くなり、傷ついた人とともに傷つき、無力な人とともに無力になることを要求するのです。そのように、あわれみは、人間の状態のなかにどっぷりと浸(ひた)ることを意味します。―これが、「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」「あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることが、どうしても必要だったのです。」ということばの意味するところです。
  • 「あわれみ」をこのように理解すると、それは単なる「親切」とか、「優しさ」だけでは説明しきれないものがあることがはっきりとします。あわれみは私たちの自然な心の反応として生まれるものとは言えません。むしろ、逆に避けたいものではないかと思います。なぜなら、私たちは本能的に苦痛を忌避する(嫌って避けること)ものだからです。ましてや、他人のために、他人とともに苦しむことなど望まないからです。
  • イェシュアは「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい。」(ルカ6:36)と言われましたが、それは、人間の状態のなかにどっぷりと浸って、ともに苦しむこと、ともに耐えることへの呼びかけなのです。ですから、このイェシュアの呼びかけは、実は、私たち人間の生まれつきの性質に逆らうような呼びかけと言えます。
  • 神は全能の神なのですから、その力で私たちの問題を簡単に解決することができたはずです。なにも私たちと同じようになって、共に苦しむ必要はなかったはずです。今日の「オタク族」のように、天にいながらにしてなんでもできたはずです。ところが聖書は「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」とあります。「あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることがどうしても必要だったのです。」と言います。なぜでしょう!!  その理由は、神のあわれみの神秘(奥義)が示されるためです。神が私たちとともにおられるということの真意を経験させるためです。
  • 神はあわれみ深い神であるというとき、その意味するところは、なによりも「神がわたしたちと一体になることを選ばれた」ということを意味します。主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはされません。このことはヘブル2章11節でこう記されています。「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。」と。ここで重要なことは、「聖とする方」(イェシュア)が、「聖とされる者たち」(第一義的にはアブラハムの子孫である人々)を「兄弟と呼ぶことを恥としない」ということです。
  • 私たちの肉親でも、自分の兄とか、姉とか、あるいは弟とか、妹とかを一家の恥と決めつけてしまうことがあります。家族でありながらそうなのです。あいつはこの家の恥だというわけです。あいつさえいなければ、と苦々しく思っている兄弟姉妹がいるのではないでしょうか。あの兄、弟がいるばっかりに、良い縁を結べない、良い会社に就職できない、そう思っている家族が多いのではないでしょうか。自分の子どもを、甲斐性なしと言い、ロクでもない子どもを授かったもんだと嘆く親、反対に、どうしようもない親から生まれたもんだと嘆く子ども。それぞれを家の恥としている家族は多いのではないでしょうか。しかし、イェシュアを長兄とする神の家族にあっては、この長兄は、たとえどんな兄弟姉妹であったとしても、決して恥とはしないというのです。この長兄の心は父の心です。むしろこの兄であるイェシュアは自分の兄弟姉妹に対して、共に苦しみ、共に辱めを受けること、共に耐えることを自ら進んで受け入れるすばらしい兄なのです。これが「あわれみ」です。
  • イェシュアは「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい。」(ルカ6:36)と言われましたが、イェシュアご自身のすべての行動の背後には、このあわれみの心があったことを知ることが重要です。福音書の中には実に多くの奇蹟の出来事が記されています。もし、病気や痛みに苦しんでいる人々が、その痛みから突然に解放されたという事実だけに私たちが関心を持っているとすれば、私たちは福音書の中の多くの奇蹟の出来事を誤解することになります。ここで大切なことは、病気をいやされたことではなく、このいやしへとイェシュアを動かしたものがなんであったかということです。イェシュアのすべての「いやし」のわざは、イェシュアの「連帯しようとする深いあわれみ」によるものなのです。

4. 思いやる大祭司イェシュア

【新改訳2017】
ヘブル書4章15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」(同情できる方)
ヘブル書5章2節「大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができるのです。」(思いやることのできる方)

(1) 「優しく接する」(思いやる)という務め

  • 「優しく接する」(「思いやる」)と訳されたギリシア語は「メトリオパセオー」(μετριοπαθέω)と言って、この箇所にしか使われていない言葉です(ヘブル語は「ハーマル」חָמַל)。新約聖書でここ1回しか使われていないことばです。だからと言って重要ではないということでは決してありません。このヘブル書全体のキーワードは「イェシュアを仰ぎ見る」ということばですが、この「仰ぎ見る」という「アフォラオー」(ἀφοράω)ということばも、へブル書では1回しか出てきませんが、へブル書においては最も重要なことばなのです。
  • 「思いやる」ということについて、ヘブル語の「ハーマル」(חָמַל)を調べてみると、その初出箇所は出エジプト記2章6節です。

【新改訳2017】
それを開けて、見ると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」

  • ナイル川の茂みの中にあった籠の中にいた男の子を「かわいそうに思った」のはエジプトの王女です。単にそう思っただけでなく、王女はこの男の子を「モーセ」と名付け、息子として育てるのです。「思いやる」ことについてのヘブル語の類義語は「ラーハム」(רָחַם)で、ギリシア語では「スプランク二ゾマイ」(σπλαγχνίζομαι)となります。神のあわれみを表わす語彙で、この言葉があるところには、単なる同情だけでなく、必ずあわれみの行為が伴っています。特にイェシュアの「スプランク二ゾマイ」(σπλαγχνίζομαι)を一つ一つ調べるならば、「思いやる」ことがどういうことかを知ることができます。

2019.5.1


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