****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

3章24節 「ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣」


創世記3章24節 「ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣」

【新改訳2017】

こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、 ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

【聖書協会共同訳】

神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。

כד וַיְגָרֶשׁ אֶת־הָאָדָם וַיַּשְׁכֵּן מִקֶּדֶם לְגַן־עֵדֶן
אֶת־הַכְּרֻבִים וְאֵת לַהַט הַחֶרֶב הַמִּתְהַפֶּכֶת
לִשְׁמֹר אֶת־דֶּרֶךְ עֵץ הַחַיִּים׃

●24節の【新改訳2017】も【聖書協会共同訳】も、いずれも主語を「神」と訳していますが、23節と同様、すなわち、「彼」(=神である主)のことです。


1. こうして神は人を追放した

●23節では、「神である主」は「人をエデンの園から追い出した」とありましたが、「人」に当たる原語は「彼を」(3人称語尾の「フー」הוּ)です。24節では「人を追放した」とあります。ここでの「人」は「その人」(「ハーアーダーム」הָאָדָם)と明記されています。「その人」にはアダムもエバも含まれていることは言うまでもありません。「追い出す」と「追放した」は同じ意味を持っていますが、語彙が異なります。「追い出した」は「シャーラハ」(שָׁלַח)の強意形、「追放した」は「ガーラシュ」(גָּרַשׁ)の強意形です。前者は「遣わす」という意味で、神のミッション(派遣・使命)としての意味合いを含んでいますが、後者はある所から文字通りに「追放する」という意味です。

●「ガーラシュ」(גָּרַשׁ)の例として(すべて強意形のピエル態)、以下のものがあります。
①【新改訳2017】創世記 4章14節
あなたが、今日、私を大地の面から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。」

②【新改訳2017】創世記21章10節
それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」

③【新改訳2017】Ⅰ列王記 2章27節
こうして、ソロモンはエブヤタルを【主】の祭司の職から追放した。シロでエリの家族について語られた【主】のことばは、こうして成就した。

●「シャーラハ」(שָׁלַח)と「ガーラシュ」(גָּרַשׁ)が同義語として使われている例として。
③【新改訳2017】出エジプト記 11章1 節
【主】はモーセに言われた。「わたしはファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す。その後で彼は、あなたがたをここから去らせる(שָׁלַח)。彼があなたがたを去らせる(שָׁלַח)ときには、本当に一人残らず、あなたがたをここから追い出す(גָּרַשׁの不定詞+未完了形で「ことごとく追い出す」の意)。

●新約では、神から遣わされた(שָׁלַח)イェシュアが多くの悪霊たちを、また、神殿内で売り買いしている者たちを宮から「追い出した」という箇所に「ガーラシュ」(גָּרַשׁ)が使われています(マタイ21:12, ヨハネ2:15)。


2. ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣

ケルビム.PNG

●「神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、 ケルビム(「ケルヴィーム」כְּרֻבִים)と、輪を描いて回る炎の剣(「ラハット・ハヘレヴ・ハッミトゥハッペヘット」לַהַט הַחֶרֶב הַמִּתְהַפֶּכֶת)をエデンの園の東に置かれた」とあります。

(1) 「ケルビム」
●「ケルビム」とは契約の箱の上にある「贖いのふた」にある二つの天的な(霊的な)存在です。契約の箱それ自体は神のことばを意味するものです。それを守っているのがケルビムです。

(2) 「輪を描いて回る」
●「輪を描いて回る」と訳された語彙は「ハーファク」(הָפַךְ)の分詞ヒットパエル態で「回転し、変化するもの」を意味します。「輪を描いて回る」を回復訳では「あらゆる方向に回る」訳しています。おそらく、これは人間の目に見えない霊的な存在ですが、神はそれをエデンの園の東に置いたのです。輪を描いて回る炎の剣がケルビムと共にあることから、エゼキエルが見た「車輪」(「ガルガル」גַּלְגַּל)と関係があるかもしれません(エゼ10:2, 6, 13)。

●近年、聖書全巻が車輪であることを発見した人がThe Bible Wheelという本を出版しました。それによれば、全66巻(旧新約聖書)が車輪の構造となっており、そこに見事な均衡と完璧性を備えていることを見出しています。「ガルガル」のゲマトリアは「66」です。「主のおしえは完全で」(詩篇19:7)とあるように、終わりの日が近づくにつれて、神のことばの完璧さがいろいろな面においてより明らかにされていくと思われます。メシア王国においてその奥義が明らかにされることでしょう。

(3) 「炎の剣」
●「炎の剣」ですが、聖書協会共同訳は「きらめく剣の炎」と訳しています。口語訳では「回る炎のつるぎ」と訳しています。「」と訳された「ラハット」(לַהַט)は「燃え上がる、焼き尽くす」を意味する「ラーハット」(לַָהַט)の名詞連語形です。ということは、「剣の炎」ということになります。神がエデンの園の東に置かれたのが、果たして「剣」なのか「炎」なのか、それとも「ケルビム」「炎」「剣」なのか、議論の分かれるところですが、いずれにしても、それらのものをエデンの園の東に置かれたのは、いのちの木への道を守るためです。つまり、人が勝手に近づくことができないためなのです。神が備えてくださる「道」であるイェシュア、イェシュアの十字架の贖いを通って、初めて「いのちの木」を取って食べることができるのです。

●新改訳の「輪を描いて回る炎の剣」、つまり「炎の剣」(剣の炎)の「剣」とは何でしょうか。その前に、イェシュアが「剣」に関して以下のことを述べています。

【新改訳2017】マタイの福音書 10章34節
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなくをもたらすために来ました。

●当時のユダヤ人にとって、メシアは「平和の君」であり、イスラエルに絶対的平和をもたらすと期待していました。ところがイェシュアは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。」と言われたのです。「平和ではなく剣をもたらすために来ました。」という表現は、一見、平和が否定されているように見えます。しかしこれは逆説的な表現で、後者の「剣」の意味をよく理解させるための強調表現です。「剣」の意味が正しく理解されることで、真の平和が理解されるという仕組みなのです。

●事実、「平和」(「シャーローム」שָׁלוֹם)はイェシュアとは切っても切れません。イェシュアが誕生される前にザカリヤが「暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」(ルカ 1:79)と預言しました。イェシュアが誕生された時には、御使いたちが「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と神を賛美しました。また、イェシュア自身も山上の説教の中で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)と語っています。この平和はあくまでも天の御国における「平和」のことであり、エデンの園が回復されるメシア王国でもたらされる究極的な祝福の総称です。しかしその平和が実現される前に、「剣」がもたらされなければならないのです。その場合の「剣」とは何でしょうか。イェシュアが地にもたらす(=投げ込む)「剣」とは、「御霊の与える剣である、神のことば」を意味します(エペソ6:17)。

●新約聖書で「剣」が神のことばを意味している箇所がいくつかあります。

①【新改訳2017】エペソ人への手紙6章17節
救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

②【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

●イェシュアのもたらす「剣」とは「神のことば」と同義であり、その機能はいかなる剣よりも鋭い神のことばです。イザヤ書49章2節の「しもべ(メシア)の歌」で、「主は私の⼝を鋭い剣のようにし」とあります。黙示録では、栄光のキリストの「⼝から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(1:16)とあります。①②の「剣」のギリシア語は「マカイラ」(μάχαιρα)ですが、黙示録に出てくるイェシュアの「剣」は別の「ロムファイア」(ῥομφαία)(1:16, 2:12,16, 19:15,21)という語彙が使われています。しかしヘブル語の「剣」は、いずれも「ヘレヴ」(חֶרֶב)が使われています。この「ヘレヴ」の初出箇所が創世記3章24節なのです。

●イェシュアが「わたしはであり、真理であり、いのちなのです。」と言われたことを考えるとき、「いのちの木へのを守るために、・・輪を描いて回る炎の剣を置かれた」と対応させて考えるなら、真理は「炎の剣」に対応します。その「炎の剣」はすべての偽りを見抜いて焼き尽くす炎である「神のことば」と言えます。

●やがて「終わりの日」にエデンの園が回復するとき、そこに住むように定められた者たちは、御霊の剣である神のことばによる禊(みそ)ぎを受けなければならない(潜り抜けなければならない)のです。そのとき、人は神との完全な交わりをすることができるのです。ヘブル語で「交わり」を意味する語彙は「和解」とも訳せる「シェレム」(שֶׁלֶם)で、その語源は完成を意味する「シャーレーム」(שָׁלֵם)です。神のすべての祝福の総称である「平和」(「シャーローム」שָׁלוֹם)とも関係します。その祝福を回復させるために、イェシュアは「わたしは剣をもたらすために来た」(マタイ10:34)と言っているのです。

●人(「ハーアーダーム」הָאָדָם)が、再び、神との究極的な交わり(「シェレム」שֶׁלֶם)に与るために、また、神と人との間に真の平和(「シャーローム」שָׁלוֹם)が回復されるために、誤った平和への幻想は断ち切られなければならないのです。そのために、イェシュアが神のことばという剣をもたらす(=投げ込む)ために来たと理解するなら、最も近しい関係にある「家の者たちがその人の敵となる」(マタイ10:36)ということも理解できるのです。

★ ★ ★ ★ ★ ★

2018.11.29(改訂2020.9.2)
a:9404 t:6 y:6

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional