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3.歴史書(2) の神の民の再建事業は失敗

歴史書(2)」の目次

3. 神の民の再建事業は失敗


(1) 終着駅は律法主義

  • 律法主義とは、人間のわざが強調されて、そのわざに対する報酬として神が良いことをしてくれる、という確信的な期待と考えてよい。そこには、人間が罪人であるという事実が忘れられ、贖罪において示される神の愛と恵みが過小に評価される危険が多分にある。この律法主義は捕囚期前にも潜在していたが、亡国と捕囚はいわばそれの破産を明らかにしたようなものだった。
  • 帰還と再建が許されたということは、何よりも<罪のゆるし>という一方的恩寵による。そこに神の愛を見るべきであった。しかし、再建が<わざ>としての誇りの材料になるとき、律法主義はたくましくよみがえる。
  • 捕囚以前にもおいても、律法はイスラエルにおいて尊重されていた。しかし、捕囚期に神殿を失ってシナゴーグが登場するようになると、律法の比重は増大していく。帰還後に神殿ができてからも会堂(シナゴーグ)の役割はますます大きくなり、そこで律法が読まれ、教えられ、こうして律法はイスラエルの精神生活の中心を占めるものになっていく。また、それを教え、指導するレビ人の役割も大きくなっていった。
  • エズラによる律法公布という出来事が、この動きにおいて重要な地位をしめることは確かである。しかし律法の絶対化に伴い、アブラハムやモーセやダビデに代表されるようなイスラエルの信仰が、微妙に変質していき、徹底的な律法中心宗教としてのユダヤ教へと変貌していくのは、エズラよりも後の時代である。マラキ時代のような民のふてくされた姿はそう長くは続かなかった。ユダヤ人の律法への熱心は、一見それを克服したかに見えた。しかし、前者のふてくされた姿が主とマラキの心を痛めたのに劣らず、後者の律法に対する熱心な律法主義をも神の心を痛めたのである。

(2) キリスト・イエスに対する信仰による義を指向する

  • このように、結局、旧約の歴史が全体として告げるところは、神の選民イスラエルでさえ失敗したという事実を通して、人間の罪の深さが証明され、救い主が来られる以外に希望はないということが明らかにされている。
  • 使徒パウロは、ガラテヤ書でこう述べている。
    「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係りとなりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(3章23、24節)


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