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Ps46の「かかわりの構造」

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Ps46



1. 告白する作者(共同体)

  • 詩篇46篇には、マルチン・ルターも愛したすばらしい力強い神への信仰告白が記されています。
    (1)「神はわれらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。」(1節)
    (2)「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」(7節)
    (3)「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」(11節)
  • これら三つの信仰告白が、この詩篇を三つの段落に分けています。自然界の驚異の中で、これまでの過去の歴史的な危機において、また将来の終末に起こる出来事においても貫かれるべき告白として記されています。自然界をあらわす「山」とか「海」がメタファーとして使われている場合があります。たとえば、「石」(「エヴェン」)が「メシア」を意味するように、「山」は「王国」や「国」のメタファーであったりします。ですから、詩篇46篇の「山々」が「海のまなかに移る」とか、「山々が揺れ動く」というのは、たといどんな大国であったとしても、歴史の中に消えてしまうという地的現実が繰り返されるのです。
  • ちなみに、詩篇における神への信仰告白の表現形式は二つあります。ひとつは、「・・の方(神)、・・である方」という形式、もうひとつは、「神は、私(私たち、われら)の・・」という形式です。詩篇46篇の信仰告白は後者の形式です。
  • 詩篇46篇では、すべて「われらは、われらの、われらと」という主体が告白していますが、「私」という集合人格で告白することも可能です。御子イエスが弟子たちに教えた「主の祈り」は御子ご自身が祈っておられた祈りですが、その祈りにおける最初の呼びかけは「天にいます私たちの父」と複数になっています。従って、詩篇が人となられた御子イエスの祈り(告白)と考えるならば、詩篇46篇は御子イエスが「われらの」という表現で共同体的に祈っていると考えることができます。

2. 「ひとつの川」の存在(4節)

  • 重要なことは、これらの三つの神に対する信仰告白を支えている確信が、「川」(正確には言えば、「ひとつの川」)の存在です。ここでいう「川」は、歴史的に考えれば、エルサレムがアッシリヤに包囲されたとき、ユダの王ヒゼキヤが地下深くに作った「水路」と考えることができます。しかしここでは、「川」をメタファーとして理解することが懸命です。なぜなら、この「川」の存在によって、詩篇のあとの二つの信仰告白が、最初の告白にはなかったもの、すなわち、「万軍の主はわれらとともにおられる」との告白となっているからです。
  • 「川」(単数)は「御霊」を表わすメタファーです。聖書において、御霊は「川」、あるいは「水」にたとえられています。ただし3節にある「水」(複数)の場合は、神に敵対する勢力を意味しています。
  • 4節「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまい(ふところにいる)、その都はゆるがない。」とあります。「川がある」とは、「神の住まいを喜ばせ、神ご自身がその真中にいます」ことと同義です。それが、7節、11節で「主はわれらとともにおられる」と告白させているのです。
  • 御子イエスは弟子たちのために御父に「もうひとりの助け主」を遣わしてくださるように祈りました。その目的は「助け主」がいつまでも弟子たちとともにいるためです。その「助け主」は私たちとともに住み、私たちのうちにおられます。これは御父と御子が私たちのうちに住まいを設けることと同義です。(ヨハネの福音書14:16, 17, 23)

3. 神の声(御父の声)

  • 詩篇46:8以降には、主(ヤーウェ)がこの地上に平和をもたらすことが述べられています。それゆえ、神(御父)は「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々であがめられ、地の上であがめられる。」と語っています。ここの「わたし」とある存在こそ、御子を遣わされた方であり、その方のみこころはこの地に平和(シャーロームשָׁלוֹם)を実現することです。
  • 8節は将来(終末)に起こることが預言されています。神の民イスラエルはメシア王国(千年王国)が樹立する前に患難時代を経験しますが、その時にも「万軍の主はわれらとともにおられる」と告白がなされることが預言されています。戦いによる地の荒廃に変えて、真の平和(シャーローム)をもたらすことのできる神こそまことの神であり、その方はやがて終末においてご自身のみわざを地になされます。それゆえ、「来て、主のわざを見よ」と御霊は呼びかけているのです。
  • 詩篇46篇の信仰告白は、過去、現在、そして将来において貫かれるべき告白です。しかしその告白を根底から支えているのは、「一つの川」とたとえられた御霊の存在です。この詩篇を御子の御父に対する信仰告白と確信とみなすとき、その告白と確信を支えているのは、うちにおられる御霊と御父の呼びかけです。私たちもこの三位一体のゆるぎない神の交わりの中にとどまるとき、私たちの信仰告白はいっそう生きたものとなるに違いありません。なぜなら、神の救いの歴史の中において、そのことが真実であることを、繰り返し、繰り返し、証ししているからです。

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