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Ps51の「かかわりの構造」

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Ps51


  • 詩篇51篇が大好きという方はそう多くないと察します。表題には「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに」とありますから、この詩篇の背景にはダビデの人生における大失敗の事件があります。その内容はあまりにも真実で、とても重く、私たちの心の深いところを探られるからだと思います。しかし、この詩篇を新たな視点から味わうとき、霊性を回復するための極上の一篇として見えてきます。なぜそうなのかをこれから説明してみたいと思います。
  • この詩篇は、「私」という存在が、「神」に向かって一方的に語っています。ちなみに、前篇の50篇では神から呼びかけられた「あなた」は全く口を閉ざしていました。しかしここでは、神は完全に沈黙し、ひたすら、「私」が「神」に嘆願の祈りをささげているのをみることができます。ところがよく見てみると、「私」と「神」の二者の存在だけではなく、「私」のうちに存在しているもう一人がいることが分かります。それは「霊」(ルーアッハ)です。この詩篇では4回、「ゆるがない霊」(10節)、「あなたの聖霊」(11節)、「喜んで仕える霊」(12節)、「砕かれた霊」(17節)と表現されています。作者である「私」が、この「霊」を「私のうちに新しくしてください」(10節)、「私から取り去らないでください」(11節)、「私をささえますように」(12節)と祈っているとろをみると、すでにこの「霊」は「私」のうちに存在していることが分かります。そして、この「霊」が「私」のうちにあって祈りを導いていると考えることができます。
  • この「霊」は「あなたの聖霊、あるいは、聖なる霊」とありますから、神から遣わされた霊です。この霊は、やがて新約時代に現わされることになる「助け主」としての「御霊」ということができます。この「御霊」をして、神ははじめて「私」のなかに「きよい心を造る」ことができます。「造る」という動詞は、神が天と地を創造されたところの「造る」(バーラー)と同じです。つまり、神にしかできない事柄がここでは祈られているのです。
  • 御子イエスが栄光をお受けになるまで、すなわちペンテコステ以前には、御霊(ルーアッハ)はまだすべての人の上に注がれてはいませんでした。旧約においては特別な職務に召された者に対してのみ、神は御霊をお与えになっていました。王となったダビデはその御霊を与えられた一人でした。しかも、旧約では御霊の賦与は一時的であり、取り去られることもあったのです。それゆえダビデは罪を犯した後で「聖霊を私から取り去らないでください」と神に祈り求めたのです。ちなみに、新約時代においては、聖霊が取り去られることはありません(ヨハネ14:16,17)。
  • この詩篇が私たちの霊性を回復させる最高の(極上の)詩篇であると言えるのは、「神」、「私」、「霊」の存在が親密なかかわりをもっているからです。そのかかわりは「御父」、「御子」、「御霊」の三位一体のゆるぎないかかわりが、人をして新しく創造のわざをなしてくださるという希望を与えてくれるからです。
  • この詩篇には、「認罪の深さ」、「きよさへの渇望」、「本当のいけにえに対する開眼」が見られますが、それだけでなく、この詩篇の祈りは、まさに、神のみこころを喜ばせる完璧な祈りと言えます。
  • 使徒パウロはローマ書8:26で「私たちは、どのように祈ってよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」と言っています。しかも、「御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるから」(28節)であり、「人間の心を探り窮める方(御父)は、御霊の思いが何であるかを良く知っておられる」(同節)とも述べています。使徒パウロはだれよりも「霊の祈り」(異言の祈り」をした人でした(Ⅰコリント14:18)。この「異言の祈り」は「知性の祈り」とは異なり、人も自分も理解することはできません。なぜなら「御霊のとりなしの祈り」だからです。この祈りは、自分と神との関係を建て上げるために与えられている祈りですが、はっきりしていることは、明確に、神のみこころに従って祈られている祈りだということです。異言の祈りの内容はだれにもわかりませんが、もしそれを文字にできたとしたら、どんな内容なのでしょうか。詩篇51篇の祈りは、まさにそれを垣間見せてくれていると私は信じます。
  • 詩篇51篇の祈りが、神のみこころを喜ばせる完璧な祈りだというのは、そのような意味においてです。キリストも私のためにとりなしてくださいます(ローマ8:34)。そのキリストは内なる御霊として、私のうちにあって、「神のみこころに従って」、私のために代ってとりなしてくださるのです。それゆえ御霊は私を新しくして自由を与え、喜びを与えてくれます。「御霊のあるところには自由があります」(Ⅱコリント3:17)とあるとおりです。さらに、Ⅱコリ 3:18 には「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とあります。
  • 私のうちにあって寄り添うようにして助けを与えてくれる助け主、援助者という存在。その方は御父から、御子から私たちに遣わされた方です。感謝なことに、この方のとりなしと支えによって、私たちは詩篇51篇のダビデのように祈ることができ、神との最高のかかわりを築かせていただけるのです。

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