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Ps52の「かかわりの構造」

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Ps52a

  • 詩篇52篇におけるかかわりの特徴は、「私」という存在と、全く異なる生き方をしていている「悪を誇る者、欺く者、偽りを愛する者」の存在の違いが明確されています。この詩篇では「神」は沈黙を守っています。また、「人称なき存在」は微妙に「私」に寄り添って神とを信頼することを助けています。この詩篇では「私」の存在があまりにも強く表わされていて、「人称なき存在」のはっきりとした姿は見えません。1~7節までがその「人称なき存在」の声と見る見方もあるかもしれませんが、8節で「しかし、この私は(アニー)」という強烈な表現をみると、やはり、1~7節は「私」の声としてみるほうが自然かもしれません。
  • 他に、「私」と連帯している「正しい者たち(神に従う者たち)、聖徒たち」がいます。
  • 「悪を誇る者、欺く者、偽りを愛する者」の存在の運命は、神によって、「打ち砕かれ、「打ち倒され」、「引き抜かれ」、「根こぎにされる」運命にあるだけでく、「正しい者たち」もそうした者に対して、「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富に頼り、おのれの悪に強がる」と笑っていることを付け加えて、「私」の生き方をある意味で援護するかたちとなっています。
  • この詩篇の強調点は、「神を力とせず、おのれの豊かな富にたよりとする者」と「神の恵みに拠り頼む私」との相違です。どちらも「バータハ」というヘブル動詞が使われています。前者を、新共同訳では「自分を滅ぼすものを力を頼んでいた」と訳しています。全く異なる二つの「拠り頼み」の間には、当然のごとく相克が生じます。
  • その相克は、ダビデのみならず、御子イエスも経験したことでした。土台が全く異なっているのです。詩篇52篇の「私」は、自分のことを「神の家におい茂るオリーブの木のようだ」と述べています。常に、神の恵みの中に生かされてきたことをのゆえに、神に感謝し、いつくしみ深い(トーヴ)御名を待ち望んでいます。

    Ps52b

  • 「神の恵みは、いつも、あるのだ」というこの確信(1節)。「私は、世々限りなく。神の恵みに拠り頼む」という告白は、相克を余儀なくされても、それを生き抜いたダビデがおり、御子イエスがいます。私たちはいつもそのモデルに励まされて、御子がいつも御父の愛と恵みの中にとどまられたような歩み方を選び取り、そのような歩みをしたいと思います。

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