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Ps54の「かかわりの構造」

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  • 詩篇54篇の構造はとてもシンプルです。「私」という存在と、「私」を脅かす存在である「敵」ー私に立ち向かい、私のいのちを求めて待ち伏せているーが向きあっています。この「敵」の中には、敵なのか味方なのかはっきりしない「見知らぬ者たち」がおり、また、「横暴な者たち」、「自分の前に神を置いていない者たち」です。それゆえに、「私」は、神に「救ってください」、「弁護してください」と祈っています。
  • この詩篇の前半(1~3節)の最後に、「彼らは自分の前に神を置いていない」とありますが、後半(4~6節)では逆に「自分の前に神を置く」とはどういうことかが自分に問い返されている内容となっています。
  • 「自分の前に神を置く」とはどういうことか。これがこの詩篇のテーマではないかと思います。「自分の前に神を置く」とは、換言するなら、以下のような表現ができると思います。
    (1)「神を信頼すること」
    (2)「神を計算に入れること」
    (3)「神というフィルターを通してすべての現実を見ること」
    (4)「人生のあらゆる領域において、神の愛と恵みのご支配を認め、敵に対するさばきを神に委ねること」
  • このような見方をすることで、自分の存在を脅かす「敵」が、むしろ、神を信頼する絆を強めるために許された存在として見えてきます。そこからゆとりが生まれ、「私の目が私の敵をながめるー見おろすー」ことが可能となります。また、「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方」という信仰告白が生まれます。自ら敵に対して戦ったりせずとも、神にゆだねることができます。
  • 一見、「私」という存在は弱く、貧しく思えます。しかし、「自分の前に神を置く」ことで、同じ状況であっても、全く違った見方(客観的視野、鳥瞰的視野)で現実を見ることができるようになるのです。
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  • 御子イエスは、まさにこの「私」という存在と重なっています。御子イエスはその生涯において常に敵の存在と向き合われました。しかし、御子は常に御父の中にとどまっておられました。つまり、この詩篇54篇の表現で言うならば、「自分の前に神を置いていた」と言えます。
  • 「置く」というヘブル語の動詞「シール」は、確かな拠り所を神に据えるという意味ですが、そうした歩みができるように、御霊は御父から遣わされて御子のうちにとどまっておられました。聖霊は御子イエスの産出そのものであり、地上での生涯において常に離れることなく御子のうちにおられました。そのことによって、御父のあらゆるみこころを成し遂げることができました。
  • 私たちがこの御子にとどまるとき、私たちのうちにも同じく御霊が住んでくださいます。御霊は、私たちに寄り添ってくださる助け主であり、いつも、私たちのうちに住んでおられます。この御霊が詩篇54篇の「私」が生きたような生き方へと導いてくれるのです。使徒パウロは「神の御霊があなたがたのうちに宿っておられることを知らないのですか」と問いかけています(Ⅰコリント3:16)。生きた御父への信仰告白は、まさに御霊が与えてくれる確証なのです。

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