****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

Ps55の「かかわりの構造」

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Ps55a

  • 詩篇55篇における「敵」とは、3節にあるように「激しい怒りをもって恨みをいだいている者やそしる者、憎む者」ではなく、「私の同輩、私の友、私の親友」であったことが、より一層うめきを増しています。
  • この詩篇では22節だけが励ましのことばとしてしばしばクローズアップされます。確かにこの部分だけを見るならそうかもしれません。しかし、この詩篇全体の流れから見ると、必ずしもそうとは思えません。20節、21節に登場する「彼」、その「彼」とは「私」と親しくしていた者でありながら、誓約を破った存在です。「彼」の口から出ることばは、「油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣」(21節)でした。つまり、それは「私」を揶揄することばと理解する方が自然です。優しい言葉の奥に悪意が潜んでいる。口では祝福しても、心の中では呪っているということがあるのです。詩篇28:3、62:4を参照。
  • 御子イエスも、しばしば同じようなことを言われました。例えば、公生涯に入る時に、イエスは御霊に導かれて荒野で40日間過ごしますが、そのとき、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の上に立たせて言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使たちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石にうち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」(マタイ4:5~6)
  • 十字架に磔にされた時も、民衆と指導者たちは嘲笑いながらこう言いました。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と、ローマの兵士たちも「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」とイエスを嘲りました(ルカ23:35~37)。同じく十字架についた犯罪人からもこう言われました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と(ルカ23:39)。このときのイエスの心情は如何ばかりだったでしょう。
  • 詩55篇22節のことばは励ましというよりは、「私」を揶揄することばだったように思います。あるいは、うがった言い方をすれば、敵の揶揄したことばを内なる神の声として聞いた、とも言えなくもありません。
  • いずれにしても、敵の取った態度に対して、「私」という存在が神に対してどのような信仰の構えを取ったのか、そのことがこの詩篇の最も言わんとするところだと信じます。その意味でいうならば、この詩篇のキーワードは最後のことば、つまり、「私は、あなたに拠り頼みます。」(23節)ではないかと考えます。御子イエスも十字架の上で最後に語ったことばは、「わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)でした。このことばは御父への信頼を貫くことばでした。
  • ちなみに、「ゆだねる」と訳された「パラティセーミ」παρατίθημιは、「~の前に置く」という意味です。詩篇54篇のキーワードは「自分の前に神を置く」ということでしたが、詩篇55篇では「自分を神の前に置く」ということで、神への信頼というテーマがつながっています。
  • 詩篇55:23の「拠り頼む」という動詞は、「バータハ」בָּטַחで信頼することを意味します。同時に、それは神に望みを置く行為でもあります。信頼と望みは密接な関係を持っています。どんな状況にあっても、神を信頼して、神に望みをおけるかどうか、御子イエスは十字架の死という出来事において、この試練をくぐり抜けられました。この御子イエスこそ、信仰の創始者であり、完成者です。この方をしっかりと見据えるとき、神を信頼すること、神に望みを置くことがどういうことかを知ることが出来ます。知るだけでなく、この御子イエスに、信仰によってつながるとき(とどまるとき)はじめて、私たちは神への信頼と希望をもつことができるのです。

Ps55b

  • 詩篇55篇では、神に対する信頼と救いの確信はより強められています。16節~18節参照。このような信頼と確信はどこからくるのか。御子イエスがこの世に来られたことによって、御子にとどまった御霊の助けによるものです。御子は御霊の助けをとおして、御父への信頼を、十字架の死という苦しみの最中にも貫かれました。御子に働かれた御霊の助けが、御子につながる私たち一人ひとりの上にも与えられます。御父からの御子という賜物をとおして、神と私たちのかかわりのいのちの道が回復されましたが、もうひとりの助け主である聖霊という賜物によって、御子と同じ歩みができるようにされているのです。ですから、御子を信じる私たちのうちに神の御霊が住んでおられることを信じなければなりません。決して私たちは孤児ではないのです。聖霊は私たちのあちに御父の愛を感じさせ、確信させてくださるのです。

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