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Ps61の「かかわりの構造」

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Ps61a

  • 詩篇61篇を新しい瞑想の仕方、つまり「かかわりの構造」的視点をもってみるということは、その詩篇に登場する人称がだれであるかということがきわめて重要になります。特に、この詩篇61篇では、「王」という存在がだれであるかを知ることは、この詩篇全体を理解する上で重要です。
  • かつて私は、「私」と「王」は同一的存在と考えていました。ちなみに、リビングバイブルではそのように解釈して訳しています。しかし、「私」と「王」とは別の存在としてみるならば、「私」はだれで、「王」とはだれかが問題となります。もし、ここで「私」がダビデとするならば、ここでの「王」とは、自分の身から出る跡継ぎ、つまりソロモンということになります。そして、その場合、ダビデは預言者ナタンを通して与えられた神からの一方的な契約、「ダビデ契約」に基づいてとりなしているということになります。「その他Ps61」を参照。
  • 「私」と「王」のかかわりが、ダビデとソロモンとみなすならば、「御子」と「王」というかかわりになります。その場合、このかかわりは成立することになるのでしょうか。然り、成立するのです。

Ps61b

  • 新約聖書のペロの手紙第一2:7では、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司。聖なる国民、神の所有とされた民です」とあるように、はっきりと「王である祭司」とあります。黙示録1:6では「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国(あるいは「王」)とし、ご自分の父である神のための祭司としてくださった方である。」とあります。旧約聖書の出エジプト19:5にも「祭司の王国」ということばがあります。
  • キリストの弟子たちが、キリストのためになにもかも捨てて従った報いとして、イエスは次のように言われています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座につくとき、わたしに従ってきたあなたがたも、12の座について、イスラエルの12の部族をさばくのです。」(マタイ19:28)と言われました。「ざはく」という行為は王としての務めです。ここには、やがて千年王国において何らかの特別な役割が与えられることが示されています。
  • このように見ていくとき、詩篇61篇は、ダビデがソロモンのためにとりなしたように、御子イエスは私たちが「王なる祭司」として、あるいは「祭司の王国」ととしての務めを果たすことができるようにとりなしておられることが分かります。ダビデの王国の祝福は、キリストを通して今も私たちに引き継がれているのです。

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