****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「御国の福音の骨頂」


「御国の福音の骨頂」

人が安心して眠る(死ぬ)ために

ベレーシート

●前回のメッセージ「第二回セレブレイト・ハヌッカーを終えて」の「振り返り」の中で導かれた「いのちと建て上げ」について、ヨハネの福音書から取り上げることをお伝えしました。その準備に時間が必要であるため、その間に、以前から質問を受けていた事柄の中から、「人が死ぬと、どこに行くのか」をテーマに分かち合いたいと思います。このテーマは「御国の福音」の理解においても、またイェシュアの贖いを味わう「14のアラカルト」の理解においてもきわめて重要です。多くの人がこのことについて誤って信じているからです。しかし、「人が死ぬと、どこに行くのか」の「どこに」を知ることは、究極的に考えるとそれほど重要ではなく、むしろ「安心して眠りに就く(死ぬ)」ことの方がより重要です。なぜなら、そこに「御国の福音」の骨頂があるからです。今回は、まず「人が死ぬと、どこに行くのか」を述べ、そのあとに「人が安心して眠る(死ぬ)ために」を語りたいと思います。

1.「人が死ぬと、どこに行くのか」

●「人が死ぬと、どこに行くのか」。その答えは「シェオール」(שְׁאוֹל)、あるいは「ハデス」(ᾅδης)です。いずれも「よみ」と訳されます。そこはいわば「死者が神のさばきを待つ待合所」を意味します。ちなみに、「罪人が神の究極のさばきによって投げ込まれる、火の燃える苦しみの場所」のことを「ゲヘナ」(γέεννα)と呼びます。ヘブル語にすると、その音訳で「ゲーヒンナーム」(גֵּיהִנָּם)となります。エルサレムの南にあるヒンノムの谷はかつてモレク崇拝がなされ、小児犠牲が献げられたところです(「牧師の書斎」エレミヤ書7:1~34参照)。あらゆる種類の汚物、動物の死骸、犯罪者の死体で汚染され、腐敗が引き起こす疫病を避けるために絶えず火が燃え続けていたことから、「地獄」とも訳されます。新約にのみ使われる語彙で13回使われていますが、そのほとんどがイェシュアの語ったことばの中にあります。特に、ユダヤ宗教の指導者に対することばの中に多く見られます。

【新改訳2017】マタイの福音書 23章33節
蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。

●さて、「よみ」を意味する「シェオール」(שְׁאוֹל)の初出箇所は以下の通りです。

【新改訳2017】創世記 37章35節
彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。


●ヤコブに愛されていたヨセフが、兄たちの悪しき計らいによってエジプトに売られました。ヨセフが獣に食い殺されて死んだと偽りを聞かされたヤコブは慟哭し、嘆き悲しみます。息子や娘たちはそんな父をなんとか慰めようとしますが、ヤコブは彼らの慰めを拒んだとあります。そう簡単にヨセフの死を受け入れられなかったヤコブの悲しみが強調されていますが、「よみ」とは死んだ者が行くところを意味しています。

●「よみ」(陰府)はヘブル語の「シェオール」(שְׁאוֹל)で70回、ギリシア語の「ハデス」(ᾅδης)で115回ヒットします。ただし、「主よみことばのとおりに」もカウントしているので、実際の回数は減ります。いずれにしても、「よみ」は死んだ者が行くべきところとされています。したがって、「死んだら天国へ行く」という教えは聖書にはありません。そのような教えはカトリック教会が作ったもので、プロテスタント教会もその教えを受け継いでいます。これは聖書の教えではなく宗教、つまりストイケイア(諸々の霊)による教えなのです。

●そのように言うと、「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。・・・」(マタイ 11:23)にある、「天に上げられる」と「よみにまで落とされる」は、どのように理解したらよいのかと思われるかもしれません。しかし「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか」の原文は、「カペナウム、おまえが天まで高められること」とあり、「霊的な高みや尊厳さ」を意味しています。「天に上げられること」が即、「天国」の存在を示しているわけではありません。それどころか、その町の人々がイェシュアのみわざを見ても悔い改めなかったことで、最も低い場所にある「よみ」(ハデス)の中の「苦しみの場所」に落とされてしまう運命にあることが示唆されています。

●では一体、私たちは死んだらどこに行くのでしょうか。使徒パウロは「第三の天」と「パラダイス」に連れ去られたことを記しています。

【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙12章1~4節
1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。

●2節の「引き上げられました」と訳されたギリシア語は「ハルパゾー」(ἁρπάζω)の分詞です。動詞のように訳されていますが、原文は「私は、第三の天にまで引き上げられた人を知っている」という文節になっています。そして4節の「引き上げられて」と訳された「ハルパゾー」(ἁρπάζω)はアオリスト受動態です。2節も4節も「ハルパゾー」(ἁρπάζω)が「引き上げられ」と訳され、いずれも天に行くイメージです。つまり「パラダイス」があたかも天にあるかのように訳されているのです。果たして、「パラダイス」は天にあるのでしょうか。そもそも「ハルパゾー」(ἁρπάζω)は「無理やり~奪い去られる無理やり~連れ去られる」という語彙です。例えば、以下がそうです。

①【新改訳2017】使徒の働き8章39節
二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。

②【新改訳2017】Ⅰテサロニケ人への手紙4章16~17節
16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
17それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

●①は「連れ去られた」と訳されていますが、②は「引き上げられ」と訳されています。「ハルパゾー」は必ずしも「上に、天に、引き上げられる」という意味ではありません。ですから、Ⅱコリント12章4節の「彼(パウロ)はパラダイスに引き上げられて」は意訳であって、むしろ「パラダイスに連れ去られて」というのが正しい訳であると考えます。

●Ⅱコリント12章2節に「第三の天」が言及されています。ということは、「第一の天」もあれば、「第二の天」もあることを意味します。「第一の天」とは目に見える「雲がある領域」で、「第二の天」は雲のかなたの「空の領域」です。そして「第三の天」は「第二の天の上にある天」で、「天の天」、すなわち「最も高い天の領域」を指しています。そこには御座があり、御父と御子がおられるのです。

①【新改訳2017】申命記 10章14節
見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。
②【新改訳2017】詩篇148篇4 節
天の天よ 主をほめたたえよ。天の上にある水(=力強い神の御声)よ。

●使徒パウロは「天の天」にまで引き上げられた人です。「肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません」と記しています。ところが、3~4節の冒頭には「そして(さらに)」を意味する接続詞「カイ」(καί)があります。ここではきわめて重要なのですが、なぜか新改訳聖書には訳されていません。そのため、「第三の天にまで引き上げられた」ことと、「パラダイスに引き上げられた」ことが同義として訳されているのです。2節と3~4節に記されていることが果たして同義なのか、それとも異なる内容なのかが重要です。新改訳は、2節の「第三の天」と3~4節の「パラダイス」を同じ場所として解釈しています。しかし回復訳では、「第三の天」と「パラダイス」は異なる場所として解釈されています。私は回復訳の方が聖書的だと判断します。その理由を説明したいと思います。

●パウロはピリピ人への手紙2章10節で、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの」という三つの区分をしています。最後の「地の下にあるもの」というフレーズは聖書でここ一箇所のみです。なぜなら、イェシュアがそこを通り抜けられた唯一の方だからです。「地の下にあるもの」とは「ハデス」のことです。

画像の説明

●使徒パウロ自身も同じく、無理やりそこに「連れて行かれている」のです。それゆえ、以下のことが記述できたのではないでしょうか。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~11節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの地にあるもの地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

●使徒パウロは地に生きている人です。そのパウロが多くの人が知らない「第三の天」に「引き上げられ」、また「地の下にあるハデス」に「連れて行かれた」のです。彼は隠された二つの究極的な領域を見せられ、啓示を受けたのです。

●ところで、イェシュアが十字架で死なれた後、どこに行かれたのでしょうか。それは「ハデス」にある「パラダイス」と呼ばれる場所に行っています。

【新改訳2017】ルカの福音書23章42~43節
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

●これまで私は、強盗の一人が言った「あなたが御国に入られるとき」と、イェシュアが言われた「今日、わたしとともにパラダイスにいます」と理解していました。つまり、「今日」(「ハッヨ―ム」הַיּוֹם)を終わりの日と理解し、キリストの再臨によって地にもたらされる御国を「パラダイス」と理解していました。しかしイェシュアのことばを重層的に(字義どうりに)理解するとすれば、、イェシュアと強盗の一人は今日(today)、ともに「ハデス」に行っていることも事実なのです。使徒信条の「死にて葬られ、よみにくだり」とあるとおりです。ルカの福音書16章を見るならば、「パラダイス」は天ではなくハデスにあることが分かるのです。しかもそこは、慰められる心地良い所なのです。

【新改訳2017】ルカの福音書16章19~28節
19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた金持ちもまた、死んで葬られた。(※「連れて行かれた」は「アポフェロー」ἀποφέρωの不定詞で「連れ出されること」)
23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた
24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている
26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵「テホーム・ゲドーラー」(תְּהוֹם גְּדוֹלָה)がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』

●これは「たとえ話」ではなく、実話です。ある金持ちと貧しい人ラザロが死んで葬られました。ラザロは「御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた」とあり、そこが「慰め(安息=「メヌーハー」מְנוּחָה)の場所」であることが分かります。「メヌーハー」の語源は「ヌーアッハ」(נוּחַ)で、「安息を与えられて憩う」ことを意味します。ところが、金持ちの方は「炎の中の苦しみの場所」にいます。ラザロも金持ちも死んで「よみ」にいるのですが、ラザロはアブラハムの懐で慰められているのに対し、金持ちは苦しみもだえているのです。しかも「よみ」には、ラザロと金持ちとの間に行き来することができない「大きな淵」が存在しています。ルカ23章のイェシュアと強盗の一人は、おそらく「よみ」(=ハデス)にある「アブラハムの懐」、つまり「パラダイス」に行ったはずです。そもそもパラダイスは、「(エデンの)園」(「ガン」גַּן)のように「四方を囲まれたところ」を意味します。ですからハデスの中にそのような場所が備えられているに違いありません。

画像の説明

●パウロはパラダイスに関して、「言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました」と記していますが、ルカの福音書16章から分かることは、ハデスの中に「慰めの場所」と「苦しみの場所」の二つの部分があるということです。ラザロは死んで、アブラハムの懐の「心地よい安息の場所」に行き、反対に金持ちは死んで「苦しい場所」に行きました。その金持ちはこう言っています。

【新改訳2017】ルカの福音書16章27~29節
27 ・・・『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』

●死後、二人の状況は生前とは全く逆転しています。金持ちは苦しみの場所にいますが、貧乏人であったラザロはアブラハムの懐で慰めを受けています。「アブラハムの懐」と「苦しみの場所」の間には「大きな淵」があり、それを越えて行き来することはできません。また「苦しみの場所」からも、「アブラハムの懐」からも、生きている人間のところに行くことも不可能です。地とハデスとは全く隔絶されており、行き来して警告することは不可能なのです。

●イェシュアは天におられた神でありながら、受肉して人となられました。それは「最初のアダム」を踏み直すために洗礼を受けられ、人と一体化し、十字架の死によってそれを終わらせました(「完了した」ヨハネ19:30)。そのあと「よみ」(ハデス)に下り、三日目に死人の中からよみがえり、秘密の昇天をされた後に、いのちを与える霊となって人の霊を再生させ、その中に内住してくださいました。そのことによって、キリストにある「新創造」(New Creature)が始まっています。ところで、イェシュアが秘密の昇天をしたとき、あるいは復活から40日目に昇天されたときに、ハデスのアブラハムの懐にいた者たちは一緒に天に昇ったのでしょうか。それとも昇らなかったのでしょうか。二つの解釈があります。メシアニック・ジューのアーノルド・フルクテンバウム博士は、キリストとともに「天に昇った」と解釈します。この解釈はディスペンセーション主義のダービーやスコフィールドの解釈を踏襲しています。もしそれが正しいとしたら、キリストの空中再臨の時にエックレーシアが「携挙される」必然性がなくなります。「携挙」される時までも、ハデスにあるパラダイスは「安息の場」であるからです。天に移される必然性がありません。その上、天の場所についての言及が聖書にないからです。また、エックレーシアとは異なる「旧約の聖徒たち」のよみがえりはキリストの再臨時です。なぜなら、ペンテコステの時点でペテロはダビデについてこう語っているからです。

【新改訳2017】使徒の働き2章29~32節
29 兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
30 彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。
31 それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
34 ダビデが天に上ったのではありません。・・・

●ここで確認できることは、ダビデは死んで葬られ、いまだ墓の中にいるということです。ダビデは後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と預言したのであって、ダビデはいまだよみ(ハデス)にいることを、ペテロは語っているからです。

2. 「人が安心して眠る(死ぬ)ために」

(1) 老シメオンのように

●2022年10月のセレブレイト・スッコートで語ったイェシュアの贖いを啓示する「14のアラカルト」を、アシュレークラスの主要講義として位置づけ、昨年の12月から、新しい試みとしてその一つ一つを順に取り上げ、参加者が質問を出したり、それに誰かが答えたり、それに誰かが突っ込みを入れたりしながら、共同で与えられた一品料理をさらに読み解いていく学びのときをもっています。「目からうろこ」を豊かに経験する取り組みです。この中で私自身が印象深く受け止めているのは「シメオンの預言」です。噛めば噛むほど、新たな味が味わえます。

【新改訳2017】ルカの福音書2章28~32節
28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。
31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」

●特に、29節の「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます」ということばです。これは「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた」とあるように、シメオンはキリストを見ることができたので、安心して死ぬことができると言っているのです。これが「御国の福音」を知ることの骨頂と言えます。老シメオンは長い間、「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」人でした。

●聖霊が彼の上に継続的におられ、「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と、聖霊によって継続的に告げられていたことを、未完了形が使われていることで知ることができます。そして、シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イェシュアを連れて入って来るところに遭遇します。彼らに出会ったシメオンが「幼子イェシュアを腕に抱いた」ことは、預言的・奥義的な行為です。つまり、シメオンが「幼子イェシュアを腕に抱く」行為が、やがてイェシュアが「いのちを与える霊」となって、私たちの霊を回復し、その中に内住することを預言しています。そのことで、神のご計画とみこころ、みむねと目的を知って「御国の福音」を理解する者となるという、キリストにある「新創造」(New Creature)が、予めシメオンを通して啓示されているのです。

●イェシュアを腕に抱くまでは、ただ単に「イスラエルの慰め(=救い)」だけを待ち望んでいたシメオンでしたが、イェシュアを腕に抱くことで、神のご計画が「イスラエルの慰め(=救い)」を超えて、「万民の前に備えられた救い」であることが示されたのです。それが、「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」という御国の福音なのです。しかも、そのご計画は御子の「死と復活」を通して成就する定めであるということを、シメオンは両親に告げています。

【新改訳2017】ルカの福音書2章34節
34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています
35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

●シメオンの「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます」ということばは、「王なる祭司」としての最高の宣言ではないでしょうか。「安心して眠る(死ぬ)ことができる」ということは、「永遠の身の置き所を見つけた者の安息」なのです。神はそのような祭司として造り上げてくださるのです。

(2) アンナのように

●シメオンに加えて、女預言者の老アンナが登場します。彼女も「非常に年を取っていた」とあります。彼女はシメオンの預言を聞き、「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人」に、シメオンから聞いた幼子にある神のご計画を語った人です。ここにも「二人の証人」があります。アンナの幸いを、聖書は「処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた」と記しています。シメオンには歳に関する記述がないのに、アンナの場合は年齢の数によって祝福された生涯を啓示しています。「七」は神の計画の成就の数を表し、「八十四」は7×12で神の喜び(「アーヴァー」אָוָהのゲマトリア=1+6+5=12)が完全に成就することが表されています。シメオンもアンナも、実にアシュレー(幸い)な御国を待ち望む模範と言えます。

●また、二人の名前にも深い意味が隠されています。シメオン(שִׁמְעוֹן)の名には「御子に聞け」というメッセージが隠されており、アンナの名には語源「ハーナン」(חָנַן)から「神があわれんでくださる」というメッセージが隠されています。二人の名を合わせると、「御子の声を聞く者に、神はあわれみを示してくださる」となります。パウロはこのことを次のことばで表しています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙11章32~33節
32 神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。
33 ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。


ベアハリート

●今回は、「人は死んだら、どこに行くのか」について学びました。それを知ることは大切ですが、それ以上に、老シメオンとアンナのように安心して眠る(死ぬ)者となることがより重要です。最後に、モーセの死について記されている箇所を読んで心に留めたいと思います。

【新改訳2017】申命記34章7節
モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2024.1.22
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