とりなし手に与えられている霊的な立場
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B-05. とりなし手に与えられている霊的な立場
(1) 御座にある権威の座―神の右の座に着座されたキリストー
- 使徒パウロはエペソの教会に宛てた手紙の中でこう述べている。
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1章20~21節)と。
- 神の右の座・・一般的な意味で「右に出る者がいない」という表現は、一番すぐれているということを意味する。あるいは「右腕」ということばも、最も信頼している補佐役を意味する。「神の右の座」とは、王に次ぐ栄光の座であり、これ以上ないという至高の栄誉と権威の象徴的表現なのである。神は、ご自身の御子イエス・キリストに万物を支配する至高の権威―「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に」-を与えられたのである。
(2) キリストのパートナーとして共に座す
- キリストは、地上で人間のためにあがないのわざを成し遂げられ、今や、驚くべきことに、何と神の右に私たちもキリストと共に座しているのである。エペソ2章4~6節には「あわれみ豊かな神は、・・罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と記されている。キリストは天において私たちのためにとりなす働きをしておられるが、そのとりなしは何と私たちと共になそうとされているということである。この事実に目が開かれない限り、教会は神の力を現わすことはできないのである。
- 「キリストとともに天のところにすわらせてくださった」とは、私たちがとりなしの働きをするために、キリストとともに権威の座に着き、その聖なる権威による統治のわざに参与するためである。また、とりなしの祈りは神の御座につかれた御子イエスとの聖なるパートナーシップにあずかることでもある。「主が彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」(マルコ16章20節)は、初代教会の実に簡潔な歴史を表している。また聖書は、すべてのクリスチャンを「神の協力者」(Ⅰコリント3章9節)、「神とともに働く者」(Ⅱコリント6章1節)と呼んでいるが、具体的に、それはとりなしの祈りを通して可能なのである。このように、私たちが、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられて、それを行使する立場(位置)にあることを知ることはとても重要なのである。(注)
- 使徒パウロがエペソの教会のためにとりなしている祈りの中で、「神の全能の力によって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか、あなたがたが知ることができるように」と祈っている。この「神のすぐれた偉大な力・・を知る」とは、神の右に着座されたキリストに与えられた権威、すなわち<イエスの御名>の権威がもたらす力である。そしてこの力をとりなしにおいて実際に経験するように、というのがパウロの祈りであった。
(注)
- 今日のキリスト教会は「十字架についての教え(罪の赦し、義認・・等)」だけでなく、「御座についての教え(権威)」を必要としている。17世紀のイギリスのバプテスト教会が生んだ有名な説教家、チャールズ・ハンス・スポルジョン(1834~1892年)は次のような体験を語っている。
ある日、彼は寝たきりの老婦人の家に呼ばれた。老婦人は栄養失調で今にも死にそうな状態であった。スポルジョンが彼女の家を訪れると、部屋の中に額縁に入れられた一枚の文書が壁に掛けられていた。彼は彼女に「これはあなたのものか。」と尋ねた。彼女は「そうです。」と答えた。そして彼女はかつて自分がイギリスの貴族の家でメイドとして働いていたこと、そしてその貴族の家の夫人が亡くなられる前に、それを自分にくれたことをスポルジョンに話した。彼女はなんとその亡くなった夫人に半世紀近くもの間(50年近く)仕えてきたのであった。そしてその仕えてきた夫人がくれた文書を、彼女は額に入れて、その夫人がなくなられて以来10年間もの間、壁にかけてあるのだと説明した。スポルジョンは「それを私にお貸し願いませんか。もっと詳しくそれを調べてみたいのです。」字を読むことができなかったその婦人は言った。「ええ、いいですよ。ただ、必ずそれをお返しください」と。スポルジョンはその筋の権威のところにその文書を持っていって調べてもらった。するとそれはなんと遺産であった。イギリスの貴族の夫人が長い間仕えてくれたメイドに家とお金を遺していたのであった。老婦人はたった一部屋しかない木の箱のような小さな家に住み、飢えて死にそうになっていた。彼女が十分に世話をしてもらって、りっぱな家に住むことのできる遺産が与えられていたにもかかわらず、である。スポルジョンはその遺産が実際に彼女のものとして使えるように手助けをした。彼女がもっとはやくそのことを知っていれば、得られたてあろう益は大きかったはずである。知らないばかりに、みじめな生活をしていたのである。
(ケネス・E・ヘーゲン著『イエスの御名』、信仰ミニストリーズ、1992年、49~50頁参照)
- この話は、今日のクリスチャンを代弁しているかもしれない。というのは、主から偉大な遺産を与えられているにもかかわらず、遺産の文書をしっかりと読んでいないか、あるいは読んでいても、霊の目がふさがれていて、理解できていないかもしれないからである。それゆえ、パウロは祈っている。「心の目が開かれるように・・・」と。
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