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イェシュアの律法の解釈(2)

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12. イェシュアの律法の解釈 (2)

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【聖書箇所】マタイの福音書5章21~26節

ベレーシート

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  • マタイの福音書5章21節から、イェシュアによる律法の解釈が語られていますが、その語り口は「対立命題」という、それまでの口伝律法の解釈を否定する形で語られています。前回は右図にある六つの戒めのタブレットのうち、「殺してはならない」という最初の神の戒めを取り上げました。「殺してはならない」という神の戒めは、単に殺人を犯すという意味に限らず、「兄弟に対して腹を立てること」、また、兄弟に対して苦々しい思いをもって、「能なし」とか「ばか者」という者も、神の目から見るなら、「殺してはならない」という戒めを破っていることになるというものでした。
  • イェシュアは神の律法(みおしえ=「トーラー」)の精神を二つに要約されました。一つは「あなたの神である主を愛すること」(心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして)。もう一つは「あなたの隣人をあなた自身のように愛すること」(自分を愛するように)です。その視点から神の戒めが解釈されています。天の御国は、この神の律法が私たちの努力によってではなく、徹頭徹尾、神によって成就する世界です。
  • さて今回は、第二のタブレットである「姦淫してはならない」という戒め、およびそれと深く関連するものとして、「離婚」という第三のタブレットを取り上げたいと思います。

1. 「姦淫してはならない」という戒め

【新改訳2017】マタイの福音書5章27~32節
27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。

  • 「姦淫してはならない」という戒めはモーセの十戒の第七番目にある戒めです。イスラエルでは姦淫罪に対しては極刑が課せられました。レビ記20章10節に「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」とあります。ヨハネの福音書8章1節以下にも、律法学者とパリサイ人が姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、イェシュアのもとに連行し、「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と言って、イェシュアを陥れようとしました。そのとき、イェシュアは彼らに対して、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。すると、年長者たちから、ひとりひとりその場を立ち去って行きました。
  • 「殺してはならない」という戒めが、たとえ実際に人を殺さなくても、腹を立て、人を「能なし」とか「ばか者」と言う者は殺すことになると言われたように、「姦淫」の戒めも、たとえ外の行為に表われなくても、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とイェシュアは語っています。つまり、人の心の中の思いや動機のレベルで問題にしているのです。つまり、「殺すこと」も「姦淫すること」も、その原因は人の心の中にある問題だとしています。たとえ外側の行為として表われなくても、心の罪を神はご覧になり、神は人をさばかれるのです。
  • イェシュアの言う「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」という言葉の意味は、欲望の対象として人の妻に視線を注ぐ者は、心の中ですでに姦淫を犯したというのです。これは、モーセの十戒の最後の戒めである「むさぼりの罪」と密接な関係があります。

【新改訳2017】出エジプト記 20章17節
あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

  • 「欲しがる」ということは、「むさぼる」ことです。ヘブル語では「ハーマド」(חָמַד)、ギリシア語では「エピスュミア」(ἐπιθυμία)ですが、「隣人の妻」だけでなく、「奴隷」や「牛」・・といった、いわば隣人の持ち物(現代風に言うならば、どんな車に乗っているか、どんな家に住んでいるか、暮らし向きはどうかなど)に関心を向けるときに起こってくる欲望、特にそれが自分に無い物である場合に起こってくる心の欲望、それが「むさぼり」です。これは心の中の反応であり、だれにも見えません。しかし、これが戒めとして「むさぼってはならない、欲しがってはならない」(今あるもので満足せよ)と言われると、返ってそれが欲しくなってしまう、それが「むさぼり」です。そしてこの「むさぼり、心の欲望、情欲」が偶像礼拝につながるのです。これを旧約的表現で言うならば、「高き所を築く」となります。
  • 当教会では木曜日に「突っ込み聖書研究会」をしています。先週はローマ書7章7節以降を学びました。そこには、以下のようなパウロの苦悩が記されています。

【新改訳2017】ローマ書7章15節、17~19節
15 私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

17 ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。
18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。

  • このパウロの苦悩は、私たちの苦悩でもあるのです。なぜ、パウロはこのような苦悩をかかえてしまったのでしょうか。7~9節を見てみると次のようなことが記されています。

【新改訳2017】ロ―マ書7章7~10節
7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。
8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、
10 私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。

  • 律法そのものは、永遠に変わらない神のみこころです。そのすばらしさを詩篇の作者は以下のようにたたえています。

【新改訳2017】詩篇19篇7~8節
7 【主】のおしえは完全でたましいを生き返らせ 
【主】の証しは確かで浅はかな者を賢くする。
8 【主】の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ
【主】の仰せは清らかで人の目を明るくする。

  • 同様にパウロも、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:12)と認めています。「律法」と「戒め」の関係を正しく理解する必要があります。「戒め」は「律法」の中にくくられる関係です。「では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」(7:13)と述べています。
  • ここでパウロは何を言おうとしているのでしょうか。それは律法の戒めの意味を知れば知るほど、自分が極度に罪深い者であることが分かったと言っているのです。そのことをパウロは9節で「戒めが来たときに、罪が生き(=罪が息を吹き返し)、私は死にました(=さばかれた)」と表現しているわけです。そして、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と告白しています。これはパウロの「自己破産宣告」です。ここに至ったパウロは、初めて、キリストの十字架と復活の出来事によって啓示された、「死んで、生きる」という神の恵みが備えられていることを見出すのです。
  • イェシュアが山上の説教で語っている戒めは、私たちひとりひとりをパウロと同じように、「私は、ほんとうにみじめな人間です」という自己破産宣告へと導き、キリストにあって生きる道へと導くためなのです。「キリスト・イエスにある者が戒めによって罪に定められることがない」(ローマ8:1)という事実をしっかりと信じていないと、とても聞けない心の痛い話なのです。
  • マタイに戻りましょう。5章29~30節をどのように理解したらよいのでしょうか。

【新改訳2017】マタイの福音書5章29~30節
29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。

  • 姦淫せずに生きることは、大変な犠牲がいることのように書かれています。実際、キリスト教の教父の一人「オリゲネス」(195~254年)という人は、この箇所を字義どおりに解釈して、自分の手で去勢したと言われています。しかしそのような狂気じみたことをしたとて、果たして、「姦淫の罪」と縁が切れるのでしょうか。縁が切れないのが人間の肉という性質です。「私の右の目が悪いのです」と言って「右の目をえぐり出す」とか、「私の右の手が悪いのです」と言って「右の手を切って捨てる」という恐ろしいほどの衝撃的な表現は、文字通りの意味ではありません。なぜなら、姦淫は目が問題なのではなく、心の問題だからです。それゆえ、目をえぐり出し、手を切断したとしても、根本的な解決にはなりません。ここはアイロニー(反語)的な表現で、「私の目や手が悪いのです」といった弁解が、神の前には一切通用しないということを敢えて言おうとしているのではないかと思います。

2. 離縁(離別)について

  • 「姦淫してはならない」という戒めと関連することがらとして、第三のタブレットである「離縁(離別、離婚)」のことが31~32節で取り上げられています。新共同訳聖書はこの箇所に、「離縁してはならない」という小見出しをつけています。

【新改訳2017】マタイの福音書5章31~32節
31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。
32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

  • 申命記24章1節には「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」とあります。ここには「恥ずべき事」と「気に入らなくなり」という表現があります。このみことばの解釈をめぐって、律法学者たちはいろいろと考えました。当時のパリサイ派の中に二つの学派があったようです。一つは「姦淫以外の離婚理由を認めない」という厳格な律法学者のラビ・シャンマイ学派、もう一つは離婚理由を緩やかに、自由に考える律法学者のラビ・ヒッレール学派とがありました。前者は「恥ずべき事」という語彙に重きをおいた解釈をしましたが、後者は「気に入らなくなり」という語彙に重きをおいた解釈をしました。後者の解釈でいくと、料理が下手とか、街頭で男性と話をしたとか、夫の社会的信用を落とすような不始末をしたとか、夫の前で両親の悪口を言ったとか、容姿が変わってしまったとか・・・などの理由で離婚できると考えたのです。しかしイェシュアは、不貞以外の理由で、つまり夫の身勝手さで妻を離別する者は、「妻に姦淫を犯させる」と語っています。ラビ・アキバ(50~135年)という人は、申命記の「気に入らなくなり」という語彙を、自分の妻よりもっと魅力的な女性を見つけたときにも、妻を離縁できると解釈したようですが、イェシュアの立場は厳格なラビ・シャンマイ派の見解と同様、「恥ずべき事」、すなわち「不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させる」としたのです。ルカの福音書16章18節前半にも同様のことが記されています。

【新改訳2017】ルカの福音書 16章18節
だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります

  • 上記の太字の部分は、「他の女と結婚するために自分の妻を離縁する者はだれでも、姦淫の罪を犯す者だ」と訳すことができるのです。そしてこのイェシュアの主張こそ、この戒めの新しい解釈だったのです。イェシュアは離婚において女性の権利を守る側に立っています。「気に入らなくなった」ということで離縁されるとすれば、女性はますます男性に利用されることになります。とすれば、女性は一人の人格として取り扱われないことになるだけでなく、神の定められた結婚の神聖さも失われる危険があります。ましてや、自分の妻よりもっと魅力的な女性を見つけたときに妻を離縁できるとすれば、これは「むさぼりの罪」と何ら変わりません。姦淫の根本にある問題は「むさぼりを助長する」ことです。それは結婚だけに限らず、金の切れ目は縁の切れ目と言われるように、人を利用できなくなると、いとも簡単にかかわりがプツッと切れてしまうような打算的なかかわりです。それはまさに利己的な偶像礼拝と同じです。
  • ところで、イェシュアの言う「だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」(マタイ5:32後半)、あるいは、「夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。」(ルカ16:18後半)とはどういう意味でしょうか。それは前半とつながっているのです。つまり他の女性と結婚するために自分の妻を離縁することは、そもそもその離縁は無効であり、それゆえ再婚も無効ということになります。離縁された女が再婚したとしても、その離縁がそもそも無効であるため、彼女と結婚する者も姦淫を犯すことになるという意味なのです。ここでのイェシュアのことばは、前半で語られた内容を、後半において別の表現で繰り返すという同義的並行法(対句)を用いているということです。つまり、どういうことかと言えば、「気に入らなくなった」妻を離縁しようとする夫に対して、その身勝手な行為は自分だけでなく、妻や第二の夫となる者にも姦淫の罪を犯させてしまうことを警告しているのです。

3. 結婚の本質と神聖さを前提とするイェシュアの教え

  • マタイの福音書19章にも「離婚」についての教えが記されています。イェシュアの教えの背景には、常に、神が定めた結婚の本質と神聖さが根底にあります。

【新改訳2017】マタイの福音書19章3~
3 パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
4 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
7 彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。
9 あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」

  • この箇所は、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」という質問に対してイェシュアが答えている箇所です。パリサイ人は「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」と質問しています。この質問は、先に述べたように、申命記24章1節が背景にあります。それに対して、イェシュアは「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。」と答えています。
  • 「あなたがたの心が頑ななので」とはどういうことでしょうか。パリサイ人たちは、自分の妻が気に入らなくなったら、離縁状を渡して別れても良いというのがモーセの教えだ、と自己中心的に勝手な解釈をしてこういう質問をしているのですが、それはモーセの真意ではないことをイェシュアは語っています。つまり、モーセは心が頑固になって自己中心的な夫のもとで苦しむ妻のことを配慮し、非情な夫のもとで苦しむ妻を救うためには離婚しかないと考えたがゆえにそれを許したのであって、初めからそうであったわけではないというのがイェシュアの答えでした。モーセが離婚状を渡すのを許したのは女性を守るためだったのです。しかしそれが男性の都合の良いように解釈され、利用されていたのです。そこから9節の「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」というイェシュアの明確なことばが語られています。これはマタイの5章31~32節にある対立命題と同じです。イェシュアの立場は一貫しています。
  • イェシュアは質問に答える中で(19:4~6)、結婚の本質とその神聖さをも教えようとしています。それゆえ、主にある者たちは、神が定めた結婚に隠されている深い意味とその神聖さを学ばなければなりません。創造者である神が「人はひとりでいるのは良くない」と言って、男と女を造り、人は妻と結ばれて一体となるようにしました。これは天における御父と御子の写しです。つまり、結婚は御父と御子が永遠に一体であることの写しなのです。イェシュアが「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言われたように、この永遠の事実を、地上では夫と妻が一体となる(=結婚)という形で啓示されようとしたのです。使徒パウロもエペソ人への手紙の中で、同じく「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。」と述べています。それは、キリストと教会とをさして言っているのです(5:31~32)が、そのオリジナルは御父と御子の愛の関係の現われです。
  • 結婚の奥義は「一つとなる(「エハード」אֶחָד)こと」です。それは、御父と御子の愛の関係に始まって、キリスト(花婿)と教会(花嫁)、夫婦、神の家族における兄弟姉妹、天と地、創造者と被造物がひとつとなるという神のご計画における事柄です。そこに結婚の神聖さがあることを心に留めたいと思います。しかし、人によっては「結婚できないように生まれついている人」、つまり肉体的な理由から結婚できない人。「結婚したくともできない環境に置かれている人」。そしてまた、「神のために結婚しない人」もいます。ちなみに使徒ペテロは妻帯者でしたが、使徒パウロは終生独身でした。パウロが独身であったのは、神のためにより十全に仕えようとしたからです。イェシュアはその選択の自由を認めています。要は、結婚するにしても、独身でいるにしても、神に仕え、神の栄光を現わすことが重要なのです。

ベアハリート

  • イェシュアの来臨の目的は、神のみおしえである律法(「トーラー」תּוֹרָה)を廃するためではなく、成就する(完成する)ためでした。そのためには「トーラー」に隠されている新しい洞察も含まれています。イェシュアのトーラーの解釈はその真意を明確にするためでした。それは当時の人々の解釈に対して「対立命題」となり、律法学者やパリサイ人のつまずきとなりました。神の「トーラー」は缶詰の知恵ではなく、開かれた対話の書であると言われています。つまり、「トーラー」は底のない井戸のように、深く掘れば掘るほど新しい洞察を得ることができるということです。イェシュアはそのことを次のようなたとえで語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書 13章52節
そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」

  • 古い物(宝)とは自分の師から学んだ解釈のことであり、新しい物(宝)とは、自分自身が主を尋ね求めて得た新しい解釈のことです。そんな宝を掘り出すことのできる主の弟子となりたいものです。

2017.5.28


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