パウロのとりなしのkeyword<6>Excellent
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B-14. パウロのとりなしのKeyword <6>
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真にすぐれたものを見分けること
(1) あなたがたの愛が・・いよいよ豊かになるように
- パウロはピリピの教会の人々に対して「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です」(1章8節)と述べている。パウロのピリピに対するとりなしの祈りは、キリストの愛の心からでたものであった。その彼が「あなたがたの愛が・・いよいよ豊かになるように」と祈っている。「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」(ピリピ1章9~10節)
- ここでの「あなたがたの愛」とは、ピリピ教会における主にある者の共同体における愛である。「豊かに」とは「洪水のようにあふれて流れ出す」という意味である。パウロがこうした祈りをした背景には、確かに、ピリピ教会の中にも不一致やねたみによる愛の欠如があったが、Ⅰコリント13章に「信仰と希望と愛・・その中で一番すぐれているのは愛です」とあるように、愛こそ最も尊いもの、信仰生活においてもっともすぐれたものだと信じていたからである。愛がなければすべては空しいのである。しかし、私たちの愛はしばしば歪んだ愛となりやすい。盲目的な愛や溺愛によって子どもをスポイルし、子どもの自立を妨げたり、偏愛によって家族の中に多くのゆがみを生じさせてしまうといったことが起こる(イサクとリベカの偏愛、ヤコブのヨセフに対する偏愛、等)。それゆえパウロは、愛が「真の知識」と「あらゆる識別力」という霊的な知性に裏打されたものとなるようにと祈っているのである。
(2) 真にすぐれたものを見分けるための霊的な知性
- ちなみに「真の知識」(新改訳、柳生訳)と訳されたことばは、口語訳では「深い知識」、新共同訳では「知る力」、リビングバイブル訳では「霊的な知識」と訳されている。「真の知識」とは、霊的な知識を意味し、神との人格的な交わりを通して、また神のみことばの理解によって得られる個人的・体験的な神知識のことである。これは神の愛によってのみ与えられる知識である。
- 「あらゆる識別力」(新改訳)と訳されたことばは、口語訳では「するどい感覚」、新共同訳では「見抜く力」、柳生訳では「正しい判断力」、リビングバイブルでは「洞察力」と訳されている。これらのことばは、霊的な事柄の真相をするどい感覚をもって、正しく見抜く、洞察力といえる。
- 口語訳の「するどい感覚」とは、痛みを痛みとして感じる感覚である。道徳的無感覚は良心の痛みのないところに生まれる。耳たぶや、指先が凍傷にかかると痛みを感じなくなるが、これは恐ろしいことである。痛みはとても大切な警告なのである。痛みを感じなくなった良心は、道徳上のあらゆる無感覚な行いを引き起こすようになる。今日の教会において、クリスチャンひとり一人が自分の中にこの痛みを感じる「するどい感覚」を養うことを神は求めておられると信じる。でなければ、私たちも、昔のイスラエルの民と同様に「うなじのこわい民」となってしまうであろう。それは「かたくなな心」であり、「石の心」である。
- 私たちが「真の知識」、「識別力」という霊的知性に裏打ちされた愛に満たされるならば、多くの問題が、個人的な感情に走ることなく、冷静に解決することができたに違いない。愛における知性と感性の両面におけるバランスが重要である。
(3) 真にすぐれたものを見分けること
- パウロは「真の知識」と「あらゆる識別力」によって、「真にすぐれたものを見分けること」ができるように」と祈っている。「真にすぐれたものを見分ける」と訳されたことばを他の聖書でみてみよう。口語訳では「何が重要であるかを判別すること」と訳し、新共同訳では「本当に重要なことを見分けられる」とし、柳生訳では「最善のものとそうでないものをはっきりと区別すること」、リビングバイブル訳では「善悪をはっきりと見分ける力がいつも備わること」と訳している。新改訳聖書の欄外注では別訳が記され、「異なっているものを区別する」とある。英語訳で、What is best と訳している聖書もある。
- これらを綜合するなら、何が重要なことかを見分けてBest とBetter を区別すること、と定義づけることができる。あるいは、宝石の鑑定士のように真偽の違いを見分けることとも言える。
- 私たちの人生において、すべてはっきりとした善悪の区別をつけることのできない多くの決断がある。たとえば、
①お金の使い方の場合、十分の1を主にささげた残りの分をどのように使うべきであろうか。残りは自分のものだとみなしてかなり自由に使っているだろうか。それとも自分は主の管理者として考えて、手にあるお金はすべて最終的に主のものであるとみなし、天に宝を積むために最善に使おうとしているだろうか。
②時間の過ごし方についてはどうであろうか。
③読書においてどうだろうか。真にすばらしいものにふれようとしているだろうか。
④個人的な祈りのためにどれだけ時間をとっているだろうか。主にあって向上しようという熱意を保っているだろうか。
⑤思いやり心はどうであろうか。思いやりのない人に対して、どれだけ皮肉な態度をとらずに、その人に仕えることができるだろうか。
⑥多くのなすべきことに翻弄されて、果てしなく動き回ってはいないだろうか。じっくり学んだり、黙想したり、思索したり、祈ったりする時間を取っているだろうか。果たして聖書的な優先順位を保っているだろうか。
⑦アルバイトの時間と学びや祈りの時間のバランスはどうだろうか。
- こうした問いかけに対して、ひとり一人の答えには実に選択の幅がある。何がベストであるかについて、その答えは違ったとしても、私たちの神と人に対する愛が真の知識と識別力によって豊かにされるならば、これらの問いかけに対して、すぐれたものを選びたいと願うようになると信じる。
- パウロ自身は、霊的に「真にすぐれたもの」が何であるかを見分け、それを求めることにおいて熱心で、かつ秀でた人であった。ピリピ書3章10~17節にその姿を見ることが出来る。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」 (ピリピ3章10~17節)
- パウロ自身、いつも「真にすぐれたもの」を祈り求めていた。パウロにとって、それはキリストの復活の力をますます味わい知ることであった。それが彼の礼拝者としての、またとりなし手としてのライフスタイルであった。そしてパウロは、ピリピの人々のためにも「真にすぐれたものを見分けることができるように」なるようにと祈り、励ましている。クリスチャンの人生において「真にすぐれたもの」「すばらしいもの」を得るためには、最も良い決断・選択をするための識別力が必要なのである。
- Betterではなく、Best (The thing that are excellent) を見分け、それを選び取ることができるように祈ろう。!!
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