主イエスの友(1) アンデレとヨハネ
主との友情を育む〔ヨハネの福音書〕の目次
主イエスの友(1) アンデレとヨハネ
1. 彼らはイエスといっしよにいた
- ヨハネの福音書には主イエスの友となった者たちが登場します。それぞれ「友」であることのさまざまな面を描いています。今日はその友の中から二人の者を紹介したいと思いますが、他にも、イエスの友になった人々を総合して考える時に、イエスの友となることの全体像が見えてきます。しかし、今朝はまだその全体像を知ることはお預けです。「友」のある一面を見ることにしましょう。ヨハネの福音書の箇所でいうならば、1章35節以降です。
- バプテスマのヨハネがふたりの弟子とともに立っていると、イエスが歩いて行かれるのを見ました。そしてすかさず叫びました。
「見よ。(世の罪を取り除く)神の小羊」Behold the Lamb of God
洗礼者のヨハネの驚きのことばに興味を示したふたりの弟子がイエスについて行きます。
- ひとりはアンデレ、もうひとりは名前がしるされていませんが、おそらくこの福音書を書いたヨハネ本人です。イエスは振り向いて彼らに言われました。「あなたがたは何を求めているのですか。(※)」 (※おそらくここは「なにか私に用事でも」といったニュアンスで言われたのだと思います。)
- 彼らは言います。「先生、今どこにお泊りですか。」
イエスは彼らに答えられます。「来なさい。そうすればわかります。」(永井訳では「来て、かつ見よ」と訳されています。つまり、「見る」と「分かる」ことは同義です。)
- たわいのないやりとりです。知りたければ、ついて来て、自分の目で確かめたら・・」と言った感じのやり取りです。そこで彼らはついて行って、イエスの泊っておられる所を知りました(見た)。「そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。」とあります。
- 「いつしょにいた」とは、共に過ごした、そしてその日はふたりともイエスの泊っているところで一緒に泊ったという事です。初対面なのになんとフレンドリーなかかわりでしょうか。「来なさい。そうすれば分かります。」というからついて行った。イエスについて行くと何が分かるというのでしょうか。単に、泊っている場所がわかったというだけの話ではありません。ついて行くことで、実はこのヨハネの福音書が最も伝えたいと思っていることに目が開かれるということを言おうとしているのです。つまり、それは神の秘密を知ることが出来るというかかわりを持つということです。そして事実、そうなりました。
2. 主イエスと一緒にいることの秘儀
- この宿泊の出来事は、二人の弟子たちの人生をひっくり返すこととなりましたが、具体的にどんな過ごし方をしたのか、どんな話を聞いたのかは何も記されてはおりませんが、アンデレは自分の兄弟シモン(ペテロ)を見つけて「私たちはメシアに会った」と告げたのです。そしてシモンをイエスのところに連れて来ました。そこにはなんのためらいもありません。友だちを紹介するように、自然体です。そしてシモンに対して、イエスは「あなたをケパ(訳すとペテロー岩を表わす)と呼ぶことにします。」と言って、本当の名前ではなく愛称で呼ぶようなかかわりを持たれたのです。
- 「来なさいと言われて、ついて行った。そしてそこでイエスといっしょに過ごした。過ごすだけでなく、そこに泊ってしまった。」ここで大切な点は、「いつもイエスと一緒にいるということ」です。これこそ友情を育む上でなくてはならない要件です。
- イエスと「いっしょにいる」と訳されたことば、また、「どこにお泊りですか」の「泊る」ということばは、実は同じ一つの言葉です。それはギリシャ語で「メノー」という言葉です。ヨハネの福音書15章でヨハネの福音書独特の用語である「とどまる」というこの福音書の特愛用語が出てきます。重要なことばです。この「とどまる」ということばが「メノー」なのです。イエスと一緒に過ごす、イエスにとどまることによって得られるもの、それこそこのヨハネの福音書が最も伝えたいことなのです。つまり「いのちを得る」ということなのです。
- 「イエスは今どこにお泊りなのか」ーそれは「来なさい。そうすれば分かります。」それがイエスの答えでした。つまり、イエスがいつもどこに泊っているか、いや、どこにいつもとどまっているのかといえば、それは「御父の中にとどまっている」のです。―そのことを知って、私たちがイエスにとどまる、これがこのヨハネの福音書の重要なテーマであり、それができるのは、イエスの友と呼ばれる者たちの特権なのだというのが、ヨハネが最も伝えたいことなのです。
- 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、この「主との友情」において、重要な一面は、「いっしょに過ごすこと」「とどまること」です。いつも友の存在が心の中にあることーこれが友情の持っている一面なのです。この「とどまる」というかかわりの秘儀はやがて15章において詳しく展開されます。
- 二人の弟子だけでなく、ほかの弟子たちも、イエスの友となって「一緒に過ごすこと、イエスにとどまること」を通して、やがて大きなこと、大切な事、元も重い事柄、つまり神の栄光を見ることになるのです。
- いつも主イエスと一緒に過ごした弟子たちと同様に、私たちにも特権的とも思える主との友情を育むことが許されています。そこへ招かれています。
- 信仰のいのちが枯渇しているこの時代、もう一度、主との友情を堅くすることが求められているのではないでしょうか。あなたはだれを真の友としていますか。あなたの友はだれですか。あなたの友となってくれる方はどこにいるでしょうか。あなたの人生の最高の友は・・・
3. 人生のたそがれ時に
- もう一度、イエスのことばを心に留めましょう。
- 「わたしはあなたを友と呼びました。なぜなら、父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
- 私を「友」と読んでくださる主イエスとのかかわり、その友情の中に生きることを感謝するとともに、この方と「いつもいっしょにいる」ことの感覚を現実の生活の中で身につけ、育んでいくことを、再度、新たに決意するときとしたいと思いませんか。今朝登場した二人の弟子たちはイエスの泊っているところでいっしょに過ごした時は「十時ころであった」と記されています。
- 「十時」とは現代の時刻でいうと、午後4時ころです。午後4時はユダヤでは一日の終りです。ユダヤの一日の始まりは午後6時頃からです。ですから、午後4時というのはもう少しで一日が終わるという時です。二人の弟子たちがイエスの泊っているところにいって、彼らはその日はずっとイエスと共にいようと決心した時です。それが十時です。彼らが人生の一大転換をすることになる決意をした時刻は「たそがれ時の午後4時」でした。
- このことは象徴的です。あなたも今「人生のたそがれ時」にいるかもしれません。
①年齢的な意味の「たそがれ時」―仕事をリタイアした時、一生懸命何かをしてきた後、
②精神的な意味の「たそがれ時」-自分の人生はこんなものかと半ば諦めている時、なんとなく空しく、はかなく感じられるとき、
- いずれの「たそがれ時」であったとしても、「来て、そして見なさい」という方に従うならば、決して遅すぎることはありません。ふたりの弟子の人生の大転換となるそのときをヨハネがはっきりと「十時、つまり午後4時ごろ」と記録したように、私たちにもそうした時を主が与えてくださるように祈りましょう。「自分の日を正しく数える知恵の心が与えられ」(詩篇90篇12節)て、あなたの人生が「いのちを得て」全く新しく変わることができますように。
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