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主イエスの友(5) サマリヤの女

主イエスの友(5) サマリヤの女

―心の渇きに気づかされたサマリヤの女―

はじめに

  • ヨハネの福音書にはイエスと直接会話を交わした女性たちが登場します。その中でも、最も多くの会話を交わし、しかも「大いなることーつまり重要な事柄に気づかせられた」ひとりのサマリヤの女性を取り上げてみたいと思います。
  • 果たして、男性と女性の間に友情が成り立つのでしょうか。当時の社会環境は、男性が、とりわけラビ(教師)は、外で個人的に女性と話をするなどということは許容されていない時代でした。ですから、イエスが自らこのサマリヤの女性に話しかけて言ったのは、本来、考えられないことだったのです。そう考えるならば、イエスはまさに進歩的な男性であり、勇気ある行動をした人、と言えます。当時としては、イエスは稀にみるフェミニストだったと言えるかもしれません。

1. 出会いにおける神の必然

  • 3節と4節にはこうあります。
  • 「主はユダを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」
  • 「通って行かなければならなかった。」というのはどういうことでしょうか。それは「必然」であったということです。そのように定められていたということです。人間的に見るならば、それは偶然に思えるようなことが、実は、神がそうなることを予め定めておられたということを意味します。神の世界には偶然というのは存在しません。偶然はありえません。偶然であるならば、そこにはだれの意思も存在していないからです。しかし神の世界で神の意思が働かない世界は決してありません。
  • 似たような「神の必然」が、ルカの福音書19章に出てくるザアカイとの出会いにおいても見られます。取税人の頭で金持ちであったザアカイは、イエスがどんな方を見ようとしていちじく桑の木に登りました。ところがイエスはそのいちじく桑の木の下に来られて、上を見上げてこう言ったのでした。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」・・「泊まることにしてある」、いったいだれがそんなことを決めたのか、イエスが決めておられたのです。ザアカイにとっては、いちじく桑の木に登ったのは自分の背丈が低くて見えなかったために、たまたま近くにあった木に登ったにすぎませんでした。彼にとっては偶然でしかありませんでした。ところがその木の下でピタッ!!とイエスの足が止まったのです。偶然ではありません。神の必然でした。彼の家に泊まることにしてあったのです。
  • この「神の必然」によって、ザアカイはイエスを自分の家に招くことになり、彼の人生が一変するようなことが起こったのです。「きょう、救いがこの家に来ました。」とイエスは宣言されました。彼は財産の半分を貧しい人に施し、だまし取ったものを四倍にして返すということを決心したのです。神の必然が引き起こした奇蹟でした。
  • さて、ヨハネの福音書の4章の3, 4 節「主はユダを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった。」どうしても「サマリヤを通って行かなければならなかった」のです。なぜ? それは出会いを必要としている人物がそこにいたからです。しかし、人間の側から見ると、それは、たまたま、偶然のようにしか思えないのです。
  • 4節の「しかし」という接続詞は単なる「しかし」ではなく、人間の常識を越えた「しかし」でした。特別ここを通らなくてもよかったのです。普通ならば避けて通るべきルートでした。つまり本来ならば、当時のユダヤ人はサマリヤを避けて、ガリラヤの地方に行くのが常識でした。なぜなら、ユダヤ人とサマリヤ人とは犬猿の仲だったからです。ですから、どうしてもそこを通る必要はありませんでした。しかし、神の必然はそんな常識を超えて働きます。しかも私たち人間側から見ると「きわめて日常的な出来事の中に」働かれるのです。
  • その証拠に、このヨハネの福音書4章に登場するサマリヤの女は、いつものように水を汲みに井戸にやって、そこでイエスと出会いました。女の側から見れば、偶然、そこに見知らぬ一人の男性がいたということになります。しかし、神の側では彼女に会う必然があったのです。必然ということは、ザアカイと同様、イエスは彼女のすべてを知っておられたということです。イエスの方から、常識的を越えて、タブーをおかしてまで、心に渇きを持つひとりの女性に近づいたのでした。
  • イエスほうから彼女の友となろうとして近づいたことで、彼女の最も大切な部分に、奥深い部分に焦点が当てられていくのを私たちはこれから見ることになります。そんなことになるとはつゆ知らず、サマリヤの女性はイエスの話すことばに受け答えしていきます。
  • しばらくこの二人の会話に耳を傾けてみましょう。まず、イエスの方から女に声をかけます。
    「わたしに水を飲ませてください。」
    神の必然は神の方からなんらかの声がかかります。ザアカイの時もそうでした。無視しようと思えば、無視できるようなかたちで・・。
  • イエスの声を聞いた彼女は驚きました。「あなたはユダヤ人なのに。どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ーこの「どうして」は、先ほどもいいましたように、ユダヤ人とサマリヤ人が犬猿の仲だったからです。かつては同じ仲間、親類関係でしたが、ある時からユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑するようになったのでした。いつも上から目線で、見下していたのです。それは宗教的理由からでした。そのユダヤ人が今、腰を低くして「水をください」と頼み込んでいる姿に彼女は驚いたのです。彼女の驚きはさらに続きます。それはイエスが彼女に語ったことばでした。
  • イエスは答えて言われました。
    「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
  • イエスのこのことばはほとんど彼女にとって全くわけのわからないことばだったと思います。「神の賜物」とか、「あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるか」という第三人称的な表現、そして「生ける水」・・など。彼女はその意味がわかりません。「なに、それ? 」と言った感じです。「生ける水」 living water なんのことやら・・・・。
  • しかし11節で、彼女は「その生ける水を与える」と言ったところが気になりました。わからないけど、なにやら「生ける水」という不思議なものがあるらしい。もらえるものなら、なんでも・・と思ったかもしれません。でもそれをどこから、どうやって汲むのか彼女には疑問でした。そして尋ねました。「その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」水は当然井戸から汲むもの、という頭しかない彼女は、目の前にある井戸からとしか考えられませんでした。
  • イエスはその疑問にこう答えます。
  • 「この(井戸の)水を飲む者は、だれでもまた渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者だれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(14節)
  • 10節では「その人」と三人称で語られた人物が、14節では「わたしが」に置き換えられます。そして「生ける水」が、「わたしが与える水」というふうに言い換えられています。そしてさらに、その 「生ける水」がどのようなものかをより詳しく説明しています。
    ①「渇くことがない」こと。
    ②「人の内で泉となる」こと。
    ③しかもその泉は「永遠のいのちへの水となって湧き出る」こと
    ・・などです。
  • 彼女はよくわからないけど、「そんな水があるならば、もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と話が展開していきます。イエスがしたことは見事です。なんと彼女のうちに自ら求める心を呼び覚まされたのですから。
  • イエスが飲み水を求めたことをきっかけとして、対話が進み、彼女も彼女で心の中になにか惹かれるものを感じて、今や、イエスから「水を飲ませてください」と求められた彼女が、こんどは彼女自身がイエスに「その水を私に下さい」と逆に求める者に変わってしまいました。
  • しかしここでは、彼女はイエスが与えようとしている「生ける水」(living water)がなんであるのかを理解していないために、いつものように、<行き違い>が起こっています。なぜなら、イエスの言う「生ける水」がなんのことを意味しているのかわからずに、「その水、私にもください」と言っているからです。なんと便利な水だろう。そんな水があれば、もう、こうして人目を避けて水を汲みにくることもないし・・・。欲しいな、そんな水を。下さ~い。!!!!」 しかしこの<行き違い>が正しく修正されないと、イエスとの生きた正しいかかわりというものが築かれることはありません。そこでイエスは彼女のこの「行き違い」を修正しようとします。それは彼女を神との正しいかかわりへと招くためです。それが16節からのやり取りです。

2. 渇くことのない「生ける水」への気づき

  • 16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
  • 急に話の流れが変わります。このやり取りが意味することはなんでしょうか。このやり取りが、イエスのいう「生ける水」とどのように結びつくのでしょうか。いったいこのサマリヤの女性はどういう女性なのでしょうか。彼女の本当の問題は何だったのでしょうか。5回結婚して、今は結婚していない。結婚はしていないが、今一人の男性と同棲している。きちんと正しい結婚をすることが彼女の問題だったのでしょうか。「いいえ」、です。
  • これ以上、イエスはなにも述べていません。その沈黙はイエスが彼女になにかを気づかせようとしているのです。何を?。なぜ彼女がそのようなーある意味では悲惨な結婚生活―人生を歩んできたのか。ある意味では異常でもあり、不謹慎、不道徳とも言われかねない、そんな人生を歩んできた根本的な問題に彼女の目を向けさせようとしておられるのです。
  • 実はこのあと、礼拝の問題に話が移されて行きます。話題が全く違うように見えますが、実は同じテーマが流れているのです。彼女は神を礼拝すべき場所についてそのことを話題にしますが、イエスは礼拝の真の意味を語ろうとします。つまり、神と人と交わりです。
  • この世界には二つのかかわりがあると言います。ひとつは「我と汝」というかかわりです。もうひとつは「我とそれ」というかかわりです。このことを言ったのは、ユダヤ人の哲学者マルチン・ブーバーという人です。この発見は、相対性理論を打ち立てたアルベルト・アインシュタインと並ぶ20世紀の偉大な発見と言われているのです。

  • 彼女の真の問題は「渇き」でした。人とは違った人生を送っているように見えて、実は、他の人と同じ渇きをもっていたのです。その渇きをいやす癒し対象が他の人と異なっていただけなのです。彼女は「我―それ」の関係で結婚生活をし、別れ、そしてまた再婚しても、「我―それ」の関係でしか生きられないのです。五人とも浮気をしたので離婚したとは思えません。むしろ、自分の求めるものを相手に求め、それが得られないことで、離婚と再婚を繰り返していたのではないかと思います。これは結婚という夫婦関係だけではなく、それが仕事であったり、人との関係であったり、親子の関係であったり、興味関係であったり、モノであったり、といろいろと形を変えますが、すべて同じ関係です。つまり、「我―それ」の関係です。イエスはここで、そうした関係を表すのに、「それ」を「井戸の水」で表しました。さらには、結婚生活の形であらわしました。
  • しかし「生ける水」とはそうした「我―それ」の関係とは全く別のものであること、また、神からの賜物(プレゼント)なのだということを気づかせようとしたのです。「生ける水」とは、イエスご自身です。あるいは、私たちの内に住まわれる御霊なる神とも言えます。また、それは人格的な愛の交わりとも言えます。それは、交換不能な存在として愛する愛です。相手を決して利用せず、支配せず、自由を与えてかかわる関係です。たとえ価値がないように思えても、愛し価値ある者としていく愛です。
  • しかし、「我―それ」の関係では、自分にとって価値あるものを愛するために、価値のないものは捨てられ、価値あるものと交換されます。すなわち、交換可能な関係です。ビジネスの世界はみなこの関係といえます。夫婦や親子の関係もこの関係です。親が子どもを自分の理想的な存在、いわゆる「それ」として考える時、あるいは投資の対象として考える時、悲劇が起こります。身近であればあるだけに、その関係が一度ひずむと、他人との関係よりもひどいものとなります。憎しみもひとしおです。
  • サマリヤの女性が結婚を繰り返したのは、本当の愛を求める「渇き」のゆえでした。それを男性に求めたのです。この心の渇きはだれもがもっているものです。そしてこの渇きをどういやすかがその人の生き方となって現われてきます。このサマリヤの女性は男性によってその渇きを埋めようとしました。ある女性は男性ではなく、食べることでその渇きをいやそうとするかもしれません。
  • イエスは言われました。「この水―この世が与える水―を飲む者は、だれでも(例外なく)また渇きます。渇き続けます。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇くことがありません(常習的な渇きをいやす生き方から解放されます)。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(13,14節)
  • 「生ける水」、これは神のプレゼントなのです。あまりも高価であるために、だれも手にすることができません。ですから、神は無償にしたのです。御子イエスを信じることを通して、この世のモノで渇きを癒そうとするサイクルから、あなたを解放しようとしているのです。

3. 自分のすべてを知っている方との出会いの驚き

  • 28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
  • イエスと交わした「渇きをいやす生ける水」の話、それと「霊とまことをもって礼拝する者たちを求めておられる天の父」―この天の父こそ、私たちに「渇くことのない生ける水」を賜物として与えることのできる父であることを気づかせる話が続いています。
  • こうしたイエスとの対話を通して、彼女の心の中に今まで味わったことのない感動―心動かすものを感じたに違いありません。28節に「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。」とあります。「水がめを置き忘れるほど」の感動とはいったいなんだったのでしょうか。
  • ここで面白いことは、彼女のうちに起こった感動を「今、いっしょにいる男性」に真っ先に伝えなかったということです。なぜでしょう。普通、自分の味わった感動を真っ先に伝えるのは一番身近な人ではないでしょうか。しかし彼女が今、いっしょにいる男性はそれをわかってくれるような人ではないと感じたからではないでしょうか。
  • 人間には理解してもらいたいという欲求があります。ですから話を聞いてもらえるだけで理解してもらえたと感じ、ホッとするのです。話を聞くことは相手を癒していることになります。自分のことをなんら責められることなく、受けとめてくれる存在が必要なのです。イエスの彼女がこれまでしてきたことを知っていました。しかしそのことを単に道徳的にいさめたり、社会的な倫理で計ったりすることをしませんでした。彼女の心の奥深くにある渇きを理解しようとしてくれたのです。
  • そもそもユダヤでは、公の場で男性が女性と会話することはタブーでした。そんなタブーを無視するかのように、勇気というか、大胆といか、ユダヤ人のラビが、軽蔑しているはずのサマリヤ人に対して、しかも人目を避けて水を汲みにきている一人の女性に対して、「わたしに水を飲ませてください」と低い姿勢でお願いし、しかも、この自分に話かけ、決して一方的ではなく、私の対応にうまく応じてくれて、会話を引き出しながら、次第に彼女の心の核心にふれるようなところにまでかかわってくれようとしている。そんなかかわり方に、彼女ははじめて自分の求めているものが何かが分かったのではないでしょうか。
  • その気づきの喜び、その気づきの驚きは彼女をして水がめを置き忘れさせるほどだったのです。自分の心をぱっと明るくしてくれるような、なにか大きな希望の光が心に注がれてくるような思いを、彼女は生まれてはじめてもったのではないかと思います。自分が人からどう思われているかなんて、すべて吹き飛んでしまうような出来事が、イエスとの出会いによって起こったのです。ですから、彼女は「自分の水がめを置いて町へ行き」、そして人々に語ったのです。
  • 29節、「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(新改訳) この部分を他の聖書でも読んでみましょう。新共同訳では「さあ、見に来てください。わたしが行なったことをすべて言い当てた人がいます。」どうもピンとこない。柳生訳という聖書にこうありました。「わたしのことを何もかも知っている人に出会った」と訳しています。私はこの柳生訳がいいと思います。なぜなら、柳生訳の場合、彼女のDoingではなく、彼女のBeingー存在そのものーに焦点を当てた訳になっているからです。
  • 「私のことを何もかも知っている人に出会う」―そんな出会いが起こるなんてあり得ないし、あっても滅多にないし、そんな出会いなど一生することもなく終わってしまう人が多い中で、「私のことを何もかも知っている人との出会い」は、まさに人生において最高にラッキーな出会いといえます。
  • サマリヤの女の場合、マルチン・ブーバーの「我と汝」という関係でかかわってくれる人に出会ったと言えます。「我とそれ」の関係でしか生きられない、そんな関係がもたらす、いやしがたい「存在の欠乏」は、「我と汝」という関わりと出会うまでは癒されることはないのです。イエスとの出会いによって、「我と汝」という関係の中に、新しく生まれることなくては「存在の欠乏」は満たされることはないのです。
  • イエスは今日も「わたしのもとに来なさい」と私たち一人ひとりを招き、「わたしにとどまりなさい」、「わたしのことばにとどまりなさい」、「わたしの愛の中にとどまりなさい」と語っておられます。なぜなら、私たちを招かれるイエスこそ、渇くことのない「生ける水」だからです。そして、この方を知ること、この方を信じることが、永遠のいのちを得ることなのだとヨハネの福音書は語っているのです。
  • あなたの心の中にある「渇き」という問題に対して、イエスは言われます。この水を飲むーあなたがこの世で目にするもので渇きをいやそうとするー者はまた渇きます。しかし、わたしの与える水を飲むーイエスという方を友として受け入れるー者は、決して渇くことなく、その人の心で泉となり、永遠のいのちへの水が流れ出ます。そんなかかわりを持ってくださろうとしているイエスは、あなたの友なのです。私やあなたのことを何もかも知って友としてかかわってくださる「いつくしみ深き友なるイエス」。あらためてこの方に感謝を表わしたいと思います。


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