主イエスの友(6) マグダラのマリヤ
主との友情を育む〔ヨハネの福音書〕の目次
主イエスの友(6) マグダラのマリヤ
―復活のイエスの最初の証人となったマグダラのマリヤ―
はじめに
- 聖書にはマリヤと言う名前の者が5人ほどいますので、混乱される方もいると思います。イエスの母マリヤとか、ベテスダのマリヤとか、ヤコブの母マリヤ、ヨセの母マリヤ、そしてマグダラのマリヤ、というふうに記されています。
- マリヤはヘブル語では「ミリアム」、ギリシヤ語では「マリアム」と発音されます。日本語では「マリヤ」とも「マリア」とも表記されます。
- さて、ヨハネの福音書にはマグダラのマリヤと主イエスとの会話が記されています。これはヨハネの福音書特有のもので、これは共観福音書の記者たち―マタイ、マルコ、ルカーには霊感されなかった(示されなかった)ようです。ヨハネは、このマグダラのマリヤに対して特別な関心を払っています。それは、復活されたイエスが最初にご自身を現わされたのは、なんとこのマグダラのマリヤだとしているからです。イエスはこのマグダラのマリヤにもニコデモやサマリヤの女のように「きわめて重要な事柄」を示すと同時に、それを他の者に伝える者とされたのです。ここに彼女に対するイエスの友情を見ることができるように思えます。
- マグダラのマリヤについて、四福音書がはっきりと語っているのは次の事です。彼女はー
①七つの悪霊に憑かれた病をイエスによって癒された者であること。
②十字架に磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬-といっても仮の埋葬ですー
を見届けたこと。
③イエスの墓に行った女性たちの一人であること。
- イエスの墓に行ったのはマグダラのマリヤだけでなく、数人の女性であったにもかかわらず、ヨハネはこのマグダラのマリヤに対して特別の関心をいだいているのです。ですから、墓に行ったのも彼女ひとりであるように記しています。これはあるメッセージを伝えるために意図的にそうしているのです。その意図を掘り起こしてみたいと思います。
1. マグダラのマリヤの戸惑い
- まずはヨハネの福音書20章1節を開いて読んでみましょう。
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
- 「墓」はアリマタヤのヨセフが提供した新しい墓でした。それはエルサレムの門の外にありましたが、イエスは共同墓地ではなく、だれもが確認できるような墓でした。アリマタヤのヨセフがイエスの亡骸を十字架から取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、自分のために造って置いた新しい墓に納めました。そしてその墓の入口に大きな石を転がしかけて帰った」とマタイの福音書には記されています。それをマグダラのマリヤと他のマリアが離れたところで見ていてわけです。ところが次の日(土曜)に、祭司長やパリサイ人たちが集まり、イエスが生きていたときに、「自分は三日目によみがえる」と言っていたのを思い出し、ピラトのところに来て、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと。弟子たちが来て、彼を盗み出して、「死人の中からよみがえった」と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前よりももっとひどいことになります。」と提言したことで、ピラトは墓に番兵をつけることを了承します。そして墓石を封印したのです。ところが、週の初めの日の明け方(日曜日の朝)、そんなことがあったことを知らない女たちが墓に来てみると、転がしかけてあった石が完全にわきへ転がされていたのです。
- ヨハネの福音書ではマグダラのマリヤのひとりだけがそこへやって来たように記しています。ルカでは、少なくとも3人、マグダラのマリヤとヨハンナ(マルコではサロメ)とヤコブの母マリヤという3人の名前を上げ、彼女たちが墓に葬られたイエスの亡骸に用意していた香料と香油を持って墓に行ったのですが、墓の石はわきのほうに転がされてあって、御使いからイエスは「ここにはおられません」ということを教えられるのです。そして他の弟子たちにそれが伝えられたというふうに記されています。
- しかしヨハネの福音書では、彼女がなぜそこへやってきたのかを記していません。なにかをするために来たというふうにもしるされていないのです。そこが大切なポイントです。しかも、ヨハネの福音書以外の福音書では、墓の前でだれひとり復活されたイエスと個人的に会話した者がいたとは記されていません。ただヨハネだけが、キリストの墓に来た最初の者をマグダラのマリヤとし、復活されたイエスを最初に見て、かつ会話をしたこと、そしてその内容まで記しているのです。ヨハネが意図的にこのマグダラのマリヤに特別な位置付けをしているのは明らかです。
2. マグダラのマリヤの不要な悲しみの涙
20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
- 緑色で示した箇所は「泣く」ということばです。しくしく泣いていたのではありません。文字どおりには「泣き叫ぶ」に近い言葉です。「泣き叫んでいた」「泣き叫びながら」「なぜ泣き叫んでいるのですか」というイメージです。「なぜ、泣いているのか(泣き叫んでいるのか)」とマリヤは二度、聞かれています。
- 彼女にとって泣き叫ぶ理由がありました。それほどに彼女にとってイエスは親しい近い存在だったのです。彼女はイエスのことを「私の主」とか、「あの方を・・私が引き取ります」と言っています。自分にとって余程親しいかかわりがなければこのようには言ったり、また泣き叫んだりしたりしないはずです。それほどに彼女にとって慕っていた、近しかった。その方が亡くなっただけでなく、その亡骸が無くなってしまったということは、より悲しみを増加させたに違いありません。
- しかしそんな彼女の気持ちも知らずに、「なぜ泣いているのか」と彼女は二度も問いかけられています。不思議だと思いませんか。普通なら気持ちがわかってもらえない怒りも加わって、より激しく泣き叫んでしまうところです。「なぜ泣いているのか」 つまり、彼女は、実際、泣く必要がないのに泣いていたのです。
- これは私たちもしばしば経験する神の不在経験ではないでしょうか。詩篇でも、神がなにか遠くにおられるような感じがして、「なぜ」「どうして」「いつまで」ですか、と神に問いかけています。その問いに対して神はしばしば沈黙しておられます。それこそ「なぜ」です。この沈黙はいったいなぜ!!―それは神がいつも私たちの近くにおられることを気付かせるための沈黙なのです。
- 「なぜ泣いているのか」という神からの問いかけ、それは私たちが泣く必要がないことを気付かせるための問いかけなのです。イエスの復活とその顕現はまさにそのことの確かな証拠です。
- 20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」(別訳では「マリヤよ。」)彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
- このときの情景を私たちは思い描くことができるでしょうか。彼女の表情はいかばかりだったでしょうか ? 相手を親しく呼び合う関係―これは他の福音書にはない箇所ですーこれをヨハネは伝えたかったところです。
- 「マリヤ」と呼ぶ声を聞いたとき、はじめてイエスだと分かった。そして彼女はいつもイエスを「先生」と呼んでいたことがわかる。その呼び名は彼女にとって最も親しい、最も近しい呼び名だったのだと思います。そして彼女はイエスに「すがりつこうとした」(新共同「しがみつく」、詳訳「つかまる」)。マグダラのマリヤがイエスにすがりつく、しがみつこうとしました。
- この行為から、いろいろな憶測がその後のキリスト教会に伝承された。イエスと彼女の関係を「愛人」であるとか、「恋人」であるとか、なれなれしく男性に近づいたり、その身体に触れたりすることに抵抗を感じなかった娼婦だったのではないか、いや、本当はイエスと結婚していたのではないか・・とまでも言う人たちがいたのです。
3. イエスのたしなめ
- ところがです。イエスは、彼女が「すがりつこうとする」のをたしなめられます。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」(20:17)
- なぜイエスはたしなめられたのか。このあたりを私たちはよく考えなければなりません。マタイ28章9節によれば、復活されたイエスがマグダラのマリヤと他のマリヤたちに現われた時、「彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ」とはっきり記されています。ではなぜ、ヨハネでは「すがりついていてはいけません」と言うのでしょうか。ヨハネの福音書のもう少し先に行きますと、エルサレムで弟子たちが集まっているところにイエスは現われて、復活を疑う弟子のトマスに言います。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われます。ルカの24:39節では、弟子たちに「わたしの手やわたしの足を見なさい。-幽霊ではありませんーまさしくわたしです。わたしにさわって。よく見なさい。」とあります。したがって、復活のイエスに直接ふれることがダメだということではありません。ですから、イエスがマグダラのマリヤに対して、なぜ「すがりつく」ことをたしなめたのか、という疑問が出てもおかしくありません。
- 実は、他の福音書が記すように、マグダラのマリヤはイエスにすでにすがりついているのです。しがみついているのです。新改訳ではここを「すがりついていてはいけません」と訳しています。とすれば、彼女に対してイエスがたしなめた意味は何でしょうか。それが「わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」という言葉です。
- イエスは彼女に言われました。「わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」(20:17) これはどういうことなのでしょうか。マグダラのマリヤがイエスの亡骸を正式にーそれまでは安息日が近かったので、いわば仮の埋葬の準備しかできていなかったので、正式に葬りをするための香料、香油を持ってきたというわけですー葬るためにやってきたというのは、それだけでもイエスと「近しい関係」をもっていたということになります。日本でも葬儀に最後まで参列するのは、葬儀屋さんを除けば、ごく親しい者たちです。イエスの亡骸を丁寧に葬るということはそういうかかわりのしるしです。それに加えて、マグダラのマリヤはよりイエスに近しく感じていた人でした。その証拠に、彼女が二人の御使いとイエスに言った言葉があります。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
- ここでは、彼女のイエスに対するかかわりが、きわめて個人的です。「だれかが私の主を取って行きました。」どこに置いたのかが分かれば、「私が引き取ります。」と言っている箇所です。ですから、もし、会えたとなれば、もうしがみついて離れない、放さないということが分かっていて、イエスはそういうふうに「すがりついていてはいけません。」「しがみついていてはいけません。」と言われたのではないでしょうか。
- あるいは、もっと深い意味が隠されているかもしれません。イエスは最後の晩餐の中での「決別説教」の中でこう言われました。「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(16:16) これはどういうことか弟子たちはわからなかった。それを察したイエスは続けてこう言いました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。・・あなたがは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかも、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そしてその喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(16:20~22)と約束されていましたので、マグダラのマリヤが「マリヤよ」と呼ばれて懐かしい先生と再会できた時、この約束が果たされたと思ったのかもしれません。
- しかし、イエスに言わせるならば、そうではありません。今こうして再会できたのは、以前イエスが述べた「わたしはもう一度あなたがたに会う」という意味での再会ではない。「わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」というわけです。イエスの立場からすれば、あの二階座敷の最後の晩餐で語ったことば、すなわち、「わたしはもう一度あなたがたに会う」というのは、まだ先のことだと私たちは理解できます。つまり、このことばの本当の意味するところは、キリストが再びこの地上に来られる再臨の時のことなのです(※この解釈は2022年の時点で誤りであることが判明しました。「わたしはもう一度あなたがたに会う」」とは、復活の朝、秘密の昇天をしたあとで、その日の夕方にもう一度戻って来て、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」というためなのです)。
4. 彼女に託された「きわめて重要な事柄」とは
- 最後に、彼女に託された「きわめて重要な事柄―secret thing―」についてふれて終りたいと思います。イエスは彼女をたしなめられただけでなく、正しい理解へと導かれます。
- おそらく、ここに、マグダラのマリヤがそれまでとは違った主との新しいかかわりー「新なたすがりつき」ーが示されているように思います。イエスが自分にすがりつこうとする彼女に「すがりついていてはいけません」とたしなめられたのは、それまでは目にする距離でイエスを親しく感じていた彼女に、これからは、いつでも、どこでも、だれにでも、イエスが共におられ、親しく、友としてかかわってくださる方であることを、多くの人々に伝えるその先駆者とさせるためであったと思われます
- 彼女にはすべきことがあった。それは最初のイエスの復活の証人となって伝えることです。「すがりつく」ことは確かに親しいかかわりの表現であり、きわめて個人的なかかわりです。しかし、イエスは彼女にやがて自分が父のもとに行き、離れることを伝えて、その心の準備をするように求められたのです。目には見えずとも、イエスはいつも友として近くにおられることーそのことを知ること、そのことを信じる信仰こそ「復活の信仰」なのです。この信仰の大切さを一番、最初に伝えられたのが、今朝取り上げた「マグダラのマリヤ」だったのです。
- 彼女は、かつて七つの悪霊による病で苦しんでいましたが、イエスによっていやされ、解放されてから、イエスと共に生きることを決心し、ずっとイエスについて来ました。いつもイエスの話を身近で聞き、イエスのなされることも見、そして十字架の時にもその最後を見届け、そして埋葬の準備までしようとしました。だれよりもイエスにぞっこん惚れていた女性だったと言っても過言ではありません。その彼女にイエスは「きわめて重要な事柄―secret thing―」を託したのです。これが友情のひとつの形と言えるのではないでしょうか。
- キリストを信じる私たち一人一人も、「きわめて重要な事柄―secret thing―」を知らされ、それを伝える務めをイエスからゆだねられています。彼女に託された「きわめて重要な事柄」についてもう少しふれておきたいと思います。それはより深い真理です。
- 20:17 「・・わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
- この17節の意味することはなんでしょうか。それは「わたしの父はあなたがたの父」「わたしの神はあなたがたの神」ということです。これは御父と御子という永遠のゆるぎない関わりの中に、「あなたがたを招いて養子縁組する」ということです。御父と御子の永遠のかかわりの中にあなたがたを招くということです。このことを伝えなさいとイエスはマグダラのマリヤに託したのです。これは簡単なことではありません。ただ告げればおしまいということではなく、このかかわりの中に「マリヤ、あなたも」生きていきなさいという招きなのです。
- 「すがりついていてはいけません」とたしなめたイエスは、彼女に対して本当の「すがりつき」を、新しいかかわりを教えようとしているのです。
- ルツ記の1章で、異邦人であるモアブの女性ルツが姑のナオミーユダの女性―についてイスラエルに来るという話があります。姑のナオミはなんども自分の実家に帰るように勧めたのですが、ルツはナオミにしがみついて離れようとしませんでした。ルツはナオミの兄息子の嫁です。弟息子の嫁オルパの方は、「帰りなさい」という勧めで自分の実家に帰ってしまう。ところが、ルツは違った。ルツはナオミにこう言います。
- 「あなたを捨て、あなたから離れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」
- そのように言って、ルツはナオミについて来てしまうのです。その結果は・・・やがてダビデやイエス・キリストの系譜へとつながって行きます。異邦人であつたルツがナオミにすがることによって、イエス・キリストにつながる系図の中に組み込まれていくのです。
- ヨハネの「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」という使信も、似ているように思います。それは、御父と御子という永遠のゆるぎない関わりの中に、「あなたがたを招いて養子縁組する」ということです。御父と御子の永遠のかかわりの中にあなたがたを招くということです。このメッセージを「わたしの兄弟」の所に行って、伝えなさいとマグダラのマリヤに言いました。「わたしの弟子」ではなく、「私の友」でもなく、それよりも親しい関係を現わす「わたしの兄弟たち」に(という表現をイエスはここではじめて使っていま。) 、このメッセージを「わたしの兄弟たちに伝えなさい」と。
- それを最初に託されたのがマグダラのマリヤというわけです。イエスとの新しいかかわりのメッセージです。大切なことは、御父と御子の永遠のかかわりの中にあなたがたを招くという「きわめて重要な事柄」をあなたにも託してくださったイエスの友情を受け留め、その友情を育みながら、その「きわめて重要な事柄」の意味するところを現実に生きながら、ゆるがない、ブレない信仰の歩みを日々していきたいと思います。
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