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交わりの存在としての人間の創造

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A-04. 交わりの存在としての人間の創造

はじめに

  • 神はどんな目的を持って人間を創造されたのか。神は言われた。「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(創世記1章26節) 神はここで「われわれ」と複数形で語っている。聖書の中で、神は何かを宣言するとき、常に、「わたし」という単数形を用いる。したがって、神がここで「われわれ」と言ったのには、偶然ではなく、深い意味がある。
  • 神はここで外部の者に向かって語ったのでない。外部の者に向かって語る場合は「わたし」と言われる。ここで「われわれ」と言ったのは外部の者に向かって語ったのではなく、 御自身の内にある三位一体の交わりの中で語ったことを意味する。神はその交わりの中で「われわれと同じようなかたちの人間を創造しようではないか」と語り合ったのである。
  • 「われわれに似るように、われわれのかたちに」ということは、人間が神に似ていること、神のかたちであること、それゆえに、神に近い存在者であることを示している。つまり、三位一体の神が交わりの神であるならば、人間もやはり、他の被造物のように神の外側に存在すべき者ではなく、神の内なる交わりに預かるべき存在者でなければならない。

(1) 創世記1章27節の解釈・・愛の交わりのとしての男と女、夫と妻

  • 創世記1章節には男と女の創造が神のかたちであることが明記されている。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」ここには三つの文がある。それらの文を並べてみると・・・
  • a.第一は、「神はこのように、人をご自身のかたちに 創造された。」
  • b.第二は、「神のかたちに、彼を創造し、」
  • c.第三は、「男と女とに、彼らを創造された。」
  • この三つは、神は人間を創造したという基本的なことを述べている。最初は、神が人間を、御自身のかたちに創造したことを断定している。そして、第二は、神御自身のかたちとは、つまり、神のかたちである御子を述べている。神は人間を御子のかたちに創造した。では、神のかたちとは何か。第三がそのことをはっきりと述べている。それは男と女との見られる愛の交わりである。
  • 神のかたちとは何か。それは父と子の聖霊による交わり、つまり、三位一体なる存在である。それは人間存在の中では、 男と女の互いの愛の交わりとして存在する。
  • 神は人間を神のかたちに創造したが、そのことが具体的な形として現われたのは、夫と妻という存在であった。神は三位一体なる方であり、御自身の中で愛の交わりを持っており、御自身の中で「われわれ」と語り合う存在者である。そして神は、人間をもそのような交わりの存在者として創造されたのである。夫と妻は互いに助け合い、愛し合うことを通して、三位一体なる神を地上で証する者とされたのである。

(2) 女の創造と存在目的

  • 以上のことが、女の創造にあたってはっきりと示されている。人間の存在とは、夫と妻が協力する存在である。神は言われた。「人がひとりでいるのはよくない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2章18節)と。 神は人間が孤独な者であることを望まない。そこで神は、アダムのあばら骨の一つを取ってエバを造った。妻は夫のあばら骨から造られた。それゆえ、妻の存在の根源は夫にある。妻は夫を助ける者として創造されたのである。すなわち、妻の存在の根源と目的は夫の中にある。それゆえ、妻は夫を離れて、独自の存在を確立することはできないのである。ただ夫を助けることを通して妻としての自己を確立するように神から定められている。
  • 妻の創造にあたって夫は一本のあばら骨を失った。あばら骨は人間存在の中心を占める大切な部分である。そして、夫のあばら骨の一本は妻の中にある。それゆえに、夫もまた妻なくしては自分の人生を完成することが出来ない。夫は妻の助けを得て始めて、自己の存在を完成することができる。アダムはエバを見て言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創世記2章23節)
    男はそこに神が備えられた存在、つまり自分と同じような存在でありながら、自分と違う独自の存在、そして互いに愛し合う存在を見出したのである。

(3) 男と女(夫と妻)との関係は、キリストと教会の関係のひな型

  • エペソ人への手紙5章には夫婦の戒めが述べられている。妻に対しては、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです」(22~23節)と命じられている。教会の頭はキリストであるように、妻の頭は夫である。それゆえに教会がキリストに従うように、妻は夫に自発的に従うことが求められている。
  • また夫に対しては、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(25節)、「そのように、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は、自分を愛しているのです。」(28節)と命じられている。教会はキリストの体であるように、妻は夫の体である。それゆえに、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように、夫は妻を愛し、妻のために自分を自発的にささげることが求められている。
  • ここには、夫婦の愛による交わりがキリストと教会の交わりの型として示されている。そして、キリストと教会の交わりは御父と御子と聖霊による交わりの型である。まさに、神は夫婦の中に三位一体なる神の愛の交わりを実現しようとされたのである。

(4) 教会は三位一体なる神の交わりの投影・・交わりとしての教会

  • 教会は本質的に交わりの神秘であり、「父と子と聖霊との交わりの中に結ばれた民」である。兄弟愛に満ちた教会(共同体)は、この交わりの神秘の深さと豊かさを反映することが求められている。
  • このように、「交わり」は三位一体の神の本質であると同時に、教会(共同体)の本質でもある。私たちは、もう一度、すべてのことにおいて、「三位一体の神の交わり」と「交わりとしての教会」という視点から、聖書を学びなおしてみる必要があるのではないだろうか。そして、学んだことを実践してみることが求められているのではないだろうか。

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