新約聖書におけるディアコニア <1>
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C-06. 新約聖書におけるディアコニア
はじめに
- 現代の日本社会においては介護の時代を迎えている。介護とともによく使われる二つのことばに、①デイ・ケア ②デイ・サービスがある。ケアcareとは「お世話する、気にかける、もてなす」という意味であり、サービスserviceとは「仕える、奉仕する」という意味である。いずれも、そのことばの源泉は「ご自分を無にして、仕える者の姿」をとられたイエス・キリストにある。イエス・キリストこそ愛に満ちた真のディアコ二アの最高の模範である。イエスは「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」と述べている(ヨハネ12章26節)。ここにはイエスとイエスに従う者との親密なつながりと、忠実な奉仕に対する確かな報いとの関係が明らかにされている。
- ここでは、模範として示されたイエスのディアコ二アとその教えが使徒たちにどのように受け継がれ、新しく造られた教会においてどのようにして具現できるのかを考えてみよう。
(1) 新約聖書におけるディアコニアの教え
- 新約聖書において、教会につながるすべての者のディアコ二アが繰り返し強調されている。たとえば、使徒パウロはエペソ人への手紙4章11~12節において、キリストご自身が「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕(ディアコ二ア)の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり・」と述べている。キリストのからだを建て上げるために、奉仕の働きに加わっているのは、ある一部の者たちではなく、「すべての聖徒たち」である。そして「すべての聖徒たち」は、ひとりひとり、キリストの賜物のはかりに従って(つまり、神のみこころによって)、恵みとして与えられているのである(エペソ4章7節)。
- 使徒ペテロは、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。・」(Ⅰペテロ4章10~11節)。
- このように、横の面においてディアコニア実際に活用すべきことを、自分の置かれた場所で、与えられた賜物を用いて、隣人の利益と幸せのためにディアコ二アに加わるべきことが奨励されている。これはすべての聖徒が隣人のための祭司となるよう召されているということである。ルターは、これを全祭司制と言っている。
(2) 御霊の賜物について
- 御霊の賜物は、個々のクリスチャンの中に与えられた特別な資質(超自然的な賜物)であり、才能である。御霊はこれを用いて、教会を建て上げ、神と人、そして社会(世)へのティアコ二アのための有用な手段とする。
- 使徒パウロはコリント人への手紙第一12章1節で「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことをしっていただきたいのです」と述べている。これは御霊の賜物について決して無知であってはならないということである。無知であってはならない理由を、ピーター・ワグナーは次のようにまとめている。(注)
- ① 御霊の賜物は、キリストのからだなる教会を成長させ、建て上げていく上で、欠かすことのできない、絶対に必要不可欠な力であること。
- ② キリストのからだにおけるあなた自身の存在価値(目的)は、あなたに与えられている御霊の賜物によって決定されること。
- ③ 御霊の賜物の理解は、教会の組織を理解していく鍵になること。
- それゆえ、私たちは自分に与えられている賜物がなんであるかを見出すことが重要となる。賜物を見出すための5つのポイントは、
- a. 祈ること
- b. できるだけ多くを試みること(与えられた機会、重荷と感じるところは何か)
- c. 喜びがあるかどうか(自分が用いられ、生かされているという実感)
- d. 実際の効果(良い結果)があ。かどうか
- e. 教会による確認(第三者による評価)
- 自分の賜物を早急に判断することをせず、時間をかけ、慎重に、柔軟な姿勢をもっていることが大切である。
(3) 神の恵みの良い管理者として生きる
①タビタ(ドルカス)
- 「ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」(使徒9章36~39節)
- 彼女は服を作ることが得意だった。彼女は服を作ることよって人々に奉仕した。それは多くの人々に感謝された。私たちがこの世を去る時に意味を持つのは、自分のためにしたことではなく、他の人のためにしたことである。今回のドルカスがその良い例である。イエス様の言われた「受けるよりも与える方が幸いなのです。」これはこの世の価値観と全く逆である。
- 三浦綾子は「人がどれだけ豊かであったかは、その人がどれだけ得たかではなく、どれだけ散らしたかということである」と述べているが、彼女の人生もまさにそうであった。旭川市にある『三浦綾子文学記念館』は彼女を通して励まされた多くの人々によって建てられた。
- 三浦綾子が正式に小説を書き始めたのは、42歳の雑貨屋の主婦であったときである。しかし彼女が作家活動にはいるまでには測り知れない苦しみの経験の下地があった。戦時中に小学校の教師として偽りを教えてしまったという自責の念、その後の肺結核と脊椎カリウスによる13年間の闘病生活、そしてその間のイエス・キリストとの出会いと受洗・という土台の上に、彼女は書くということを始め、天に召されるまで80冊ほどの本を書き続けた。その一冊一冊の本によって多くの人々が感動し、慰められ、生きる勇気が与えられた。
- タビタは服を作ることによってやもめたちに奉仕し、三浦綾子はものを書くことによって多くの人々の心に語りかけるという賜物を与えられた。それは、二人とも、神の恵みの良い管理者として、他の人の幸せのために自分に与えられている賜物を大切に用いたということである。
②フィベ
- 「ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなだがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」(ローマ人への手紙16章1、2節)
- 彼女は、パウロから頼まれて本書をローマに運ぶ重大な使命を託された。フェベはケンクレアイ教会の女執事(διακονιαディアコニア)であった。彼女は「多くの人々の援助者、特にわたしの援助者」であった。ケンクレアイはコリントの東にある港町。東方との貿易が行われていた。そこには貧しい人、やもめ、孤児、旅行者などが多くいて、教会はその人たちの世話をしていた。
(注)
- ピーター・ワグナー著『あなたの賜物が教会成長を助ける』(いのちのことば社、1978)参照。
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