瞑想Ps116/A
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瞑想Ps116/A
- この詩篇のキーワードは1節にあると思います。「私は主を愛する」という表現は詩篇には多くありませんが、きわめては重要な告白だと信じます。その理由は、「主は私の声、私の願いを聞いてくださるから」だとしています。
- 「主はいつも私たちとともにおられる」という臨在の経験が、神を信じる者たちの中に感じられないという方がおられました。長い苦しみと悲しみの経験の中で、またその心の思いをだれにも打ち明けられずに、心の中に沈めているとき、人は「主がともにおられる」という感覚を得ることはできません。同時に、周囲の人々とかかわることを避けるようなります。そのような方が、あるとき、自分の思いを語れる人に出会いました。せきを切ったように口から自分の思いがあふれ、川となって流れ出しました。その流れはとどまることを知らないほどでした。すると、その人のうちに変化が起こりはじめました。「主が私とともにいてくださる」ということが分かりはじめたのです。
- 「主を愛する」ということと、「主は私の声、私の願い(思い)を聞いてくださる」ということと無関係ではなかったのです。この詩篇には、「主が、ことごとく私に良くしてくださった」と告白しています。そしてそれが自分の歩みを決定づけているのです。
- この詩116篇には、9節以降から特徴的な表現が見られます。それは英語でいうと、
I will ・・・という表現です。
I will walk (9節) 「主の御前を歩みます」
I will call (13節、17節) 「主の御名を呼び求めます」
I will offer (17節) 「感謝のいけにえを主にささげます」
I will pay (14節) 「自分の誓いを主に果たします」
- ここには明確な意志の表われがあります。主が良くしてくださったことに対する私の意志です。それを代表するのが、1節の「私は主を愛する」ということばです。ところが、英語では 単に I love the Lordとなっています。I will love という表現はないのです。なぜなら、愛そのものが意志(自発的なもの)だからです。ですからあえて、I will という言い方は必要ないのだと思います。しかし「歩む」「呼び求める」「ささげる」「果たす」という行為は、自分の意思ではなく、他からの強制や義務が入り込む余地があります。ですから、あえてI will という意志が必要なのだと思います。神とのかかわりにおいて、この自発的な意志こそ最も必要なものだと信じます。しかしその意志も、神の確かな愛の支えなしには生まれるものではありません。
- イエスは自分を裏切った弟子ペテロを赦し、朝の食卓に招いたあとでこう尋ねました。「わたしを愛するか」と。この質問に私たちは自分の意志によって答えなければなりません。