瞑想Ps121/B
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瞑想Ps121/B
6節 「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことがない。」
- 私は以前から、6節に記されている「月が、あなたを打つことがない」という意味が分かりませんでした。ある注解書では、昼の「日」とは日射病のことで、夜の「月」とは月射病のことで人を気違いにする精神的病いを引き起こすと説明されています。前者は理解できるとしても、後者は理解できませんでした。
- はからずも、旭川市でもたれたメシアニック・ジューの教師であるヨセフ・シュラムのセミナーに参加しました。二日間のセミナーでした。第一日目の夜はとてもきれいな満月でした。こんな月がなぜ人を狂わすことがあるのか不思議でした。翌日のセミナーが終わってから、シュラム師を囲んでの昼食会が小さなレストランでもたれました。私は早速、昨日見た月の話をし、詩篇121篇にある「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことがない。」というのはどういう意味ですかと単刀直入に尋ねました。すると彼はさらりとこう答えてくれたのです。
- 「日」(太陽)とはエジプトの神、「月」とはバビロン、ペルシャ、シリアの神のことで、そうした神を信じている国々から守られるということだと。 ヨセフ・シュラム師の紹介
- 「目からうろこ」というのは、こういうことを言うのだとそのとき初めて思いました。ユダヤ人は神から定められた年3回の「例祭」にはどんな犠牲を払ってでもエルサレムに集まらなければなりません。巡礼する旅の途中で敵がいつ襲いかかるやもしれません。神を第一にするということは、大変なリスクを払わなければなりませんでした。果たして、そんなときも神は守ってくださるのかという心配は巡礼者たちの心の中に当然あったと思います。ところが、詩篇121篇にある「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことがない。」(6節)というのはなんという信仰の確信でしょうか。
- 私は、ユダヤ人ならではのこの解釈に驚きと同時に、聖書はこうしたユダヤ的な視点、彼らの視点をもって読まなければ理解できないことが多くあることを知らされた出来事でした。