瞑想Ps124/A
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瞑想Ps124/A
- 誰が自分の味方となってくれるのか、誰を自分の味方として持つか、それによって私たちの人生は大きく左右されると思います。この詩124篇では、「主が私たちの味方である」ことが強調されています。もし、主が味方でなかったとしたら、大水と流れに呑み込まれてしまう運命にあることを自覚しています。ましてや、主を敵に回しては勝ち目はありません。
- 詩121篇にも「私の助けは、どこから来るのか。私の助けは天地を造られた主から来る。」という同じフレーズがありましたが、詩121篇では「助けと守り」、詩124篇では「助けと味方」がそれぞれワンセットになっています。
- 詩篇の中で「味方」と訳されたことばはわずかに2箇所しかありません。他に、詩56篇9 節「神が私の味方であることを私は知っています。」。新約聖書においても、4箇所しかありません。なかでも使徒パウロは神が味方であるということはどういうことかを述べています。ローマ書8章31~39節参照。それによれば、神が味方であることで、
①だれも私を訴えたり、責めたりすることはできない。
②何者もキリストの愛から引き離すことはできない。
③私を愛して下さる方によって圧倒的な勝利者となれる。
とあります。
- 「味方」は、英語では who be on my side (our side)と訳されます。気づいても、気づかなくても、私がいのちの光のうちに歩むために、常に、私の傍にいて下さる方がおられるとはなんと心強いことでしょう。