瞑想Ps129/B
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瞑想Ps129/B
- 新改訳、新共同訳を読むと、全体が「呪いの詩篇」のように見えます。まさに人間の原罪を扱った三浦綾子が描いた『氷点』の結末のようです。しかし鍋谷尭爾師(「詩篇を味わう」Ⅲ、いのちのことば社)はそのようには見ていません。
- 鍋谷尭爾師は8節を次のように訳すべきだとしています。
(新改訳)
通りがかりの人も、
「主の祝福があなたがたにあるように。
主の名に拠ってあなたがたを祝福します」
とは言わない。
(新共同訳)
傍らを通る者が
「主はあなたがたを祝福される。
わたしたちも主の御名によって
あなたがたを祝福する」と言わないように。
(鍋谷訳)
通りがかりの人も、
「主の祝福があなたがたにあるように」
とは言わない。
(しかし)
私たちは主の名によってあなたがたを祝福する。
- その根拠は、4節の「主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」と同じ内容の言い換えをもって結びのことばとしているからだとしています。主、ヤーウェが、正しくあり、義であるので、どのような逆境の中でも、それが祝福に変えられること。敵を呪いたくなる心境であっても、最後の結びの一言「われらはあなたがたを祝福する」、つまり詩篇全体のキーワード「アシュレー」(幸いなことよ)のもとにあることを知って、のろいと憎しみは、赦しと愛に代わるのです、と述べています(325頁)。
- つまり、「主は正しくあられる」ので、「私たちは主の名によってあなたがたを祝福する」ということができるのだということです。だとしても、ここでの「私たち」とはいったいだれのことを指しているのでしょうか。1~3節にある「私」は、鍋谷師の訳している「私たち」の集合人格(代表)と見なすべきなのかどうか、迷うところです。
- ちなみに岩波訳と関根訳を参照してみると、鍋谷師と同じ立場を取って訳しています。
(岩波訳)
そして通行人は言わない、
「ヤハウェの祝福があなたたちに」と。われらはあなたたちを祝福する、
ヤハウェの名において。
(関根訳)
そこを通る者も言わない、
「ヤーヴェの祝福 君たちにあれ」とは。
われらはヤーヴェの名で君たちを祝する。