瞑想Ps131/A
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瞑想Ps131/A
- この詩131篇は、前篇と同様に「主を待つ」こと、「主を待ち望む」ことがいかなることかを教えようとしています。しかもそれは、自分のたましいを静め、沈黙させることです。なにゆえに沈黙するのか、それは「及びもつかない大きなことや、奇しいことに、深入りしない」ためです。私たちの周囲には腑に落ちないこと、不条理なこと、理解できないことが数多くあり、そうした事柄に首を突っ込むことによって、心が乱され不安と恐れに支配されてしまうからです。
- この作者は、神の民が神を待ち望むその姿を「乳離れした子が母親の前にいる」姿に例えています。乳離れした子にとって母親の存在は絶対的なやすらぎと安息の場所です。そのように、神の前に沈黙することは、神への信頼と深く結びついています。そして、神がなされることをひたすら信じて待つことの大切さが語られていると信じます。「待つ」とは、一見、消極的に思えますが、それは真に信頼することなしにはできないことだと思います。すべてのことが神から始まり、神により、神へと至るという信仰、この信仰こそ、私たちのたましいをやわらげ、沈めることができる力だと信じます。
- 「聖母のララバイ(子守唄)」という歌があります。戦いに疲れた企業戦士たちに向って、「さあ、眠りない ・ ・ どうぞ心の痛みをぬぐって 小さな子どもの昔に帰って 熱い胸に」と呼びかける歌です。詩131篇はまさに自分のたましいに語りかけた「ララバイの詩篇」です。