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神との関係を育てる <5>

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A-19. 神との関係を育てる <5>



②<黙想>、あるいは<観想>という祈りのスタイル 
 
a. <黙想>と<観想>の違い

  • 黙想の祈りと観想の祈りという世界がある。祈りの中で「黙想」と「観想」を区別する。その違いは、神に対しての姿勢の違いである。祈りが神の対話だとするならば、神へ向かう、つまり自分の立場を離れて神に向かう方向が<黙想の祈り>である。対話の世界、祈りの世界では、「向かう」ことは「迎える」ことに通じる。自分を離れて神に向うという動きは、ここでは逆になり、自分のところに来るものを受け入れる姿勢となる。つまり、自分のところに神を「迎える」方向が<観想の祈り>である。
  • しかし、私たちが神に「向かい」、神を「迎える」祈りをすることができるためには、神がまず私たちに「向かい」、私たちを「迎え」ておられるという事実が先立っていなくてはならない。私たちは「キリストなしに何もできないから」(ヨハネ15章5節)であり、「私たちがまず神を愛したのではなく、神がまず先に私たちを愛してくださった」(ヨハネ第一4章19節)というこの二つの事実こそが、私たちを神へと向かわせ、神を迎え入れる祈りが可能となっている。

b. 黙想は観想の中に含まれる

  • 神に「向う」のでも神を「迎える」のでもなく、神に迎えられ、招かれていることをいつの場合にも、より深く感じ、さらには神の愛にまったく心が奪われ、引き寄せられる。これが<観想(黙想)の祈り>と言われるものである。黙想は、ここで観想の祈りの中に含まれてしまう。

c.<観想の祈り>とは ()

  • 観想の祈りのスタイルにおいては、神の臨在が現実のものとして強烈かつ親密に迫ってくるので、神を言葉で説明しようとするなら神の臨在の認識は浅薄なものとなってしまう。それゆえ、ここでは言葉や思考は必要なくなる。観想の祈りとは、私たちと共におられ、私たちの内におられる神の臨在をより深く、そして個人的に気づかせることである。
  • フーストンはこう述べている。「祈りには、ある種とらえどころのない面があります。他の問題に取り組むように、「ハウ・ツー」式で祈りに取り組もうとしてもうまくいきません。それは、祈りが方法論(祈り方)よりも、むしろ交わり(関係性)と深く関わっているからです。祈りでは、神に対する自己放棄の内に見られる率直さ、信頼、注意力、愛を問題にします。祈りに成長するのは、このような次元においてです。観想の祈りを学ぶために修道院に入る必要性はありません。ただ神ご自身のいのちと愛に自分の全人格をあずけるとき、祈りのあらゆる深みを知ることが許されるのです。」(210頁)。またこうも述べている。「観想の道を行くとは、キリストのみが私たちの霊的渇きをいやす方であり、それに比べれば他のものは無に等しいと認識することです。」(211頁)。
  • 観想的な祈りは、神や愛などを味わう祈りである。「神について」考えるよりも、「神を味わう」ことに重点がある。そしてすべてのキリスト者は、神を知り、神を愛し、神に仕えるという観想の祈りの生活に招かれているのである。決して特別な人ではない。観想の祈りは聖霊の賜物であり、しかもこの賜物は無償の神の賜物なのである。この聖霊をとおして、御父と御子は私たちにご自分を示し、私たちは御父と御子を知り、愛し、共に住むということが可能となるのである。
  • 特に、ヨハネの福音書、とりわけ14章から16章のイエスの告別説教と17章のイエスの祈りは、私たちを<観想の祈り>へと導く最高のテキストである。ここには御父、御子、そして御霊のうちにある交わりの神秘があり、その中に私たちは神の友として招かれているのである。
    • 「その方は、真理の御霊です。・・あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14章17節)
    • 「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14章26節)
    • 「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。・・だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14章21~23節)

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  • 観想とは? 辞書をみると、「一つの心を集中して深く観察すること」(広辞苑)、「特定の対象に深く心を集中すること」(大辞林)、「自己の心情についての真の姿をとらえようと、心をしずめて深く思い入ること」(岩波国語辞典)とある。


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