神との関係を育てる <4>
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A-18. 神との関係を育てる <4>
(2) 瞑想的な祈り、および黙想・観想の祈りというスタイルについて
- ここで大切な祈りのスタイルについて紹介したい。これは本講義の主要参考文献であるジェームズ・フーストン著『神との友情』にも述べられているものである。(第9章、「聖三位一体の内にある友情」参照。―この章は、著者フーストンが最も言いたいところであると思われる。)
①<瞑想>という祈りのスタイル
a. 沈黙による知性の祈りである
- 瞑想とは、神をより全人格的に愛し、神が私たちに臨まれる生き方をするために神のことばを知性をもって熟考することを指す。瞑想の祈りは沈黙の祈りであり、声なしの祈りである。そして口頭の祈りよりもさらに内面的なものである。
- 瞑想の祈りとは、神のことばを手掛かりとした神とのコミュニケーションである。そこには知的活動があり、思考と感情の両方が働いている。そして聖書の教える瞑想はきわめて積極的な修練である。瞑想は、決して思考停止ではなく、むしろ目を開いて神のわざを見ること、しかも、個別に、細かく見て数えること、それをよく考えること、その上で語り出すこと、歌い出すことのすべてをその内容として含んでいる。
b. 瞑想の効用
- 聖書のことばを瞑想することの結ぶ実のひとつは、そのことばが自分の祈りの中に、知らず知らずのうちに口をついて出てくることである。私たちの祈りは、ややもするとワン・パターンになりやすい。この傾向を打破し、いのちにあふれた祈りに近づくためには、聖書のことばに思いを潜め、その深い意味に触れるほかない。したがって、自分の愛用する聖書以外の翻訳を読み比べることは祈りの豊かさを増し加える上できわめて有益である。他の翻訳はある意味でひとつの釈義であり、そこから新しい光を投げかけられることがしばしばあるのである。
c. 瞑想の修練のための詩篇
- 「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかったその人。・・・その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(瞑想する)。」
- この詩篇1篇は、おそらく詩篇全体を読み解く大切な鍵とも言える詩篇である。詩篇が書き記された目的は神の民の瞑想に用いるためであった。詩篇は元来、神の御前での瞑想から生まれたものであり、今なおあらゆる瞑想の祈りの源となっている。
- 瞑想の祈りでは、特に詩篇を用いるとみことばの奥深い不思議に対する驚きと喜びが湧いてくる。それは想像力や喜び、与えられた思想を人々と分かち合いたいという思いを啓発する。祈りの時間は短くても、祈りの心は瞑想的な姿勢という形で、祈りの場を離れた後にもずっと保たれる。その結果、魂の隅々まで神を待ち望む想いに包まれるようになる。(注)
(注)
- 詩篇の77篇は、神との深い交わりにおいて、瞑想を表わす言葉が四種類用いられている。
1. 「ザーカル」remember (原意は「突き刺す」)「思い起こす」(新改訳3、6、11節)、「おもいつづけ」(新共同訳)、「思う」(口語訳)と訳されているこの語は、あの時、この時、あのこと、このことの恵みを一つ一つ思い起こし、一つ一つの重みを確かめる姿が浮き彫りされている。
2. 「シーアフ」contemplate(原意は「歌う」) 「思いを潜めて」(新改訳3節)、「(自分の心と)語り合い」(新改訳6節)、「静かに考える」(新改訳12節)、「思い巡らす」(新共同訳13節)、「深く思う」(口語訳) と訳されているこの語は、基本的には、「歌う」「語る」の意味を持っている。旧約の聖徒にとって、神を深く思うことは、すなわち、驚くべき恵みのわざを行なわれる神の名をほめ歌うことに進んでいった。
3. 「ハーシャブ」consider (原意は「計算する」) 「思い返す」(新改訳5節)「思います」(新共同訳)「思う」(口語訳)と訳されている。これはあれ、あれはあれ、として見極め、区別をしながら見定めることをその内容としている。計算、勘定、評価を旨とした瞑想といっても良い。「昔の日々」「遠い昔の年々」(5節)と歌われるように、かつての日、あの年に体験した恵みの数々を細かく思い返すことこそ瞑想の大切な局面である。この意味で、キリスト者に求められるのは、緻密さである。詩篇103篇でも、「主が良くして下さったことを何一つ忘れるな」と語られている。
4. 「ハーガ―」meditate (原意は「つぶやく」)「思い巡らす」(新改訳12節)「口ずさみながら」(新共同訳13節)「思う」(口語訳)と訳されているこの語の基本の意味は、「発音する」「つぶやく」「うなる」てある。旧約の詩人にとって、神とその働きを瞑想することは口を用いて神を言い表すことに直結されていた。口語訳で「思い」と訳されていたこの言葉は、新共同訳では「口ずさみながら」と訳されたのは、原語に近づけたものである。ちなみに、バルバロ訳では「瞑想し」となっている。
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