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詩21篇の修辞

詩21篇の修辞

「純金の冠」という比喩

3節「あなたは彼を迎えてすぱらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。」

(新改訳)

  • 詩21篇の3節にある「純金の冠」という表現は、必ずしも、比喩とは言えません。なぜなら、脚注にはサムエル記第二、12:30とあり、そこを参照してみると、ダビデがアモン人と戦って勝利したときに、ダビデは敵の王の冠をその頭から取ったとあります。その冠の重さは金1タラント(約30Kg余)で、その上、宝石がはめ込まれていました。そしてその冠はダビデの頭に置かれた。」と記されています。詩篇21:3の「彼のかしらに純金の肝群れが置かれます」と符合しています。
  • しかしそんな重い冠を常日頃、頭において置くことは常識的に考えられません。王としての権威や威厳を見せるときのみ被ったと考えられます。この「純金の冠」は本当の冠であったとしても、詩篇には比喩的な「冠」が見られます。以下はその引用です。

詩 8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
詩 65:11 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。
詩 103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
詩 132:18 わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼(ダビデ)の冠が光り輝くであろう。」
詩 89:39 あなたは、あなたのしもべの契約を廃棄し、彼(ダビデ)の冠を地に捨てて汚しておられます。

  • 本来、創造の冠として人間に与えられたのは「栄光と誉れの冠」でした。しかし、人間が罪を犯したときに、その地位と威厳は喪失しました。再び、その冠をかぶらせられるためには、神の贖いの計画が実現しなければなりませんでした。感謝なことに、今や、私たちは・主イエス・キリストを通して、その冠を再びかぶらせていただいているのです。
  • それゆえ、「栄光と誉れの冠」は、神の「御恵みの冠」、「恵みとあわれみの冠」ともいうのです。
  • イスラエルの歴史においてダビデ国に与えられた栄光の冠は、神の民の不信と不従順により、しばしば「地に捨てて、汚し」ました。
  • 新約聖書において、神の子どもたちに与えられている栄光の「冠」が比喩的に表現されています。「冠」とは、本来、王や高位の人、あるいは勝利者がその地位や権威、また名誉を表すために頭に置かれるものです。「朽ちない冠」(Ⅰコリント9:25)、「義の栄冠」(Ⅱテモ4:8)、「いのちの冠」(ヤコ1:12)、「栄光の冠」(Ⅰペテ5:4)、「金の冠」(黙示4:4)という表現がありますが、信仰の馳せ場を最後まで走り通した者にはそのような栄誉ある冠が約束されています。
  • ちなみに、主イエスがかぶらせられたのは「いばらの冠」でした(マタ27:29)。これは嘲弄と恥辱の冠でしたが、終りの日には、主は多くの王冠を受けるとされています(黙19:12)。

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