****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

01.「神の住まいを建て上げるために」


1.「神の住まいを建て上げるために」

ベレーシート

●ヨハネの福音書は、モーセの幕屋を土台として記されています。シリーズ「ヨハネの福音書のエキス」では、講解説教ではなく、ヨハネの福音書にある重要な要素を取り上げて行く予定です。最初に取り上げるのは、聖書のタイトルともいうべき事柄です。それは聖書の冒頭である創世記1章1節に啓示されています。「はじめに神が天と地を創造された」は聖書全体の表題(タイトル)です。その意味は、「はじめに」と訳された「ベレーシート」(בְּרֵאשִׁית)に隠された「レーシート」(רֵאשִׁית)、すなわち「死からよみがえられた初穂であるイェシュア」によって、神が天と地を、つまり神と人がともに住む家を創造すること(厳密には「再創造すること」)です。なぜ再創造なのかといえば、「初穂」の中に贖いの概念が含まれているためです。

●「神と人がともに住む家」のことを「幕屋」(「ミシュカーン」מִשְׁכָּן)と言います。「ミシュカーン」は「神が住まわれるところ」という意味です。そこに人を招いてともに住むことを神が願っておられるのです。ヨハネの黙示録21章に記された神の幕屋の本体である「聖なる都・新しいエルサレム」が、すでに整えられて存在しているのです。下図を頭に入れてください。

画像の説明

●「エデンの園」から「メシア王国」に至るまで、神のご計画は一貫しています。それは「神の住まいを建て上げる」ことです。最初の人がエデンの園に置かれたのは「耕し、守るため」でした。「耕す」とは「祭司としての務めをする」ことであり、「守る」とは「祭司の務めをするための神からの権威を行使する王なる務め」のことです。次の形である「幕屋」の建造目的は、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」(出25:8)とあるように、エジプトから救い出されたイスラエルの民の中に、神が住まわれるためでした。「ただ中に」というのは、「ど真ん中に」という意味で、それは後に「人の霊の中に」神が住まわれることを啓示する預言的なことばでした。さらに「幕屋」から「神殿」へと姿を変えますが、その目的は変わりません。しかしその神殿が本来の目的から逸脱したために、神がご自分の民(イスラエル・ユダヤ人)に「ことば」、すなわち「御子」をお遣わしになったのです。「父のふところにおられるひとり子の神」(ヨハネ1:18)によって、ご自分のみこころを説き明かすためです。

1.ことばは人となって、私たちの間に住まわれた

【新改訳2017】ヨハネの福音書1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

●ところで、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」のは、いつのことでしょうか。「ことば」である「子なる神」(御子)は、「見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方」 (コロサイ1:15) です。「すべての造られたものより先に生まれた方」とは、「全被造物の長子」、つまり初穂的存在です。その方が「人となって、私たちの間に住まわれた」のです。多くの人は、そのときをイェシュアが受肉した時だと考えています。しかしそれは違います。「私たちの間に住まわれた」は、「わたしたちの間に幕屋を張られた」とも訳されますが、それが成就したのはヨハネ20章に記されているイェシュアの復活の日の夕べです。ヨハネの福音書の土台が幕屋であることを述べましたが、この福音書は「わたしは彼らのただ中に住む」ということが成就した時点に向かって書かれているのです。このことは、ヨハネの福音書を理解する上で重要な視点です。

●死からよみがえられたイェシュアは、復活された朝にマグダラのマリアと会っています。その際、イェシュアは彼女に「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです」と述べています。これは、初穂としての復活のからだをまだ父に献げていないという意味です。復活された日は「週の初めの日」であり、その日は「初穂の祭り」に当たります。霊のからだとされたイェシュアは、父にご自身を献げるための「秘密の昇天」をしています。その後、その日の夕方に地上に戻られて、弟子たちがユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけたその家の真ん中に立ってこう言われました。「平安があなたがたにあるように」(「シャーローム・ラーヘム」שָׁלוֹם לָכֶם)と。このことばは単なる挨拶用語とは異なります。イェシュアの語ることばは常に「霊であり、いのち」です。このことばは、「神のご計画とみこころがあなたがたに実現しますように」という意味です。しかもそのことばが二度も語られたのは、そのことを強調するためです。そのあとで、イェシュアは弟子たちに「息を吹きかけて」(「ナーファハ」נָפַח)、「聖霊を受けなさい」と言われました。これは創世記2章7節の回復です。

●「息」を吸い込むことで「聖霊に満たされる」ことが起こります。この満たしを「プレーロー」(πληρόω)と言います。つまり「内なる満たし」です。それは人の霊が回復し、そこにキリストのいのちを与える霊が内住したことを意味します。このことによってキリストにある「新創造」(New Creature)が開始されたのです。これが、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」の意味であり、人の霊の中に「幕屋を張られた」ことが成就したのです。「人の霊」と「神の霊」(キリストの霊、御霊、聖霊)がミングリングすることで、キリストにある「新創造」が証しされるのです。

2. ヨハネの福音書における「二つの霊」

●ヨハネの福音書には、「人の霊」と「神の霊」の「二つの霊」について語られていますが、訳文でそれを読み取ることはかなり難しいです。なぜなら新改訳聖書の場合、「霊」を一律に「御霊」と訳す傾向があるからです。以下の5節がそうです。

(1) 【新改訳2017】ヨハネの福音書3章5~6節

5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。
人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者はです''。

●ここでイェシュアが言おうとしているのは何でしょうか。5~6節のことばは預言的であり、奥義的です。ここでの「水」は「神のことば」のメタファーです。イェシュアはご自分の語ることばは、「霊であり、いのちです」と言われました(6:63)。これも預言的・奥義的なことばです。というのは、イェシュアのことばは「天上のこと」(3:12)であり、ある時点が来なければ理解できないからです。つまり「ことばである霊」が人にいのちをもたらすためには、イェシュアが死んでよみがえり、「いのちを与える霊」となって人の霊の中に内住しなければ、人は「新しく生まれる」ことができないのです。律法の教師であるニコデモはこの話の意味が全く理解できませんでした。それもそのはず、イェシュアの「いのちを与える霊」が彼の内に入っていないからであり、そのため「天上のこと」を理解することができなかったのです。

●5節で「水と御霊」と訳されていますが、原文では「御霊」は「冠詞なしの霊」(「プニューマ」πνεῦμά)となっています。「冠詞なしの霊」(πνεῦμά)を「人の霊」と訳すとすれば、「水」は「キリストの霊」と同義ですから、「神の霊」と「人の霊」によって生まれなければ、神の国に入ることはできない、すなわち「救われることができない」、「新しく生まれることはできない」という意味になります。そのように解釈するなら、6節の「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」ということばが理解できるのです。

●6節の「御霊」と訳されたことばは「冠詞付きの霊」(「ホ・プニューマ」ὸ πνεῦμά)です。つまり神の霊、キリストの霊、御霊を意味します。それによって生まれるものが「冠詞なしの霊」(πνεῦμά)、つまり人の霊なのです。5~6節を言い換えるなら、以下のように受け取ることができます。

5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、「いのちの霊を与える霊」(神の霊)と「人の霊」によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
6 肉によって生まれた者は肉です。「いのちを与える霊」(神の霊)によって生まれたものが「人の霊」です。
つまり。神の霊(御霊)が私たちの霊を生み出し(=再生し)、この二つの霊が作用することで、人は新しく生まれるのです。そして4節の「まことに、まことに、あなたに言います」というイェシュアのことばの真意が理解できるようになるのです。2022.5.1~2023.3.5になされたシリーズ「霊の中に生きる」がその取り組みでした。繰り返し読まれることをお勧めします(「牧師の書斎」に掲載されています)。

(2) 【新改訳2017】ヨハネの福音書4章23~24節

23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

●これはサマリアの女に語ったイェシュアのことばです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書4章20~24節
20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。・・・
23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

●サマリアの女は礼拝する場所について尋ねています。それに対するイェシュアの答えは、「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます」と答えています。それまでは、神を礼拝する特定の場所が定められていました。しかし礼拝の場所が「人の霊」に変わることを予表しています。23節では「御霊」と訳されていますが、原文では「冠詞のないプニューマ」となっており、「人の霊」なのです。つまり神が「霊」であるゆえに、人の「霊」の中で神を礼拝するようになることを語っているのです。「人の霊」は常に「御霊」とともに働きます

●「霊」は電気や電波のようなもので、目で見ることはできません。しかし、それらが働いているなら明かりが灯ったり、携帯が使えたりするのと同様に、「霊」の働きは目に見えることになります。それが「真理」(「アレーセイア」ἀλήθεια)です。「真理」とは霊の働きの実際の現れです。回復訳は「真理」を「実際」と訳しています。風を見ることはできませんが、風が吹いたことは木の葉が揺れることで分かります。これを「真理」、あるいは「実際」と言っているのです。霊はたましいに影響します。霊によって神を礼拝する者にそれが現れるのです。

●「霊の中で父を礼拝する時が来ます。今がその時です」とイェシュアは答えました。「今がその時」とは、イェシュアが復活し「いのちを与える霊」となって、人の霊の中に入られたその時です。その時に生きた礼拝を父にささげていることが自らの内に証しされるのです。礼拝している場所に来るだけでは、礼拝していることにはなりません。また未信者がゴスペルを大声で賛美しているように見えたとしても、それはパフォーマンスでしかありません。父は「御霊と真理によって」、その人の霊の中で礼拝する者たちを求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。そのために私たちがすべきことは、ただ「シェーム・イェシュア」と、イェシュアの御名を呼び求めることです。そのために、神が何をしてくださったかを見てみましょう。

3. 「行って、・・備えたら、また来て」という表現

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章2~4節
2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

●14章はとても理解しにくい章です。しかしここには「神の住まいを生み出し、建て上げる」ための重要なことが語られています。多くの人が誤解している箇所でもあります。2~3節の中にある太文字は重要な語彙です。

(1)「わたしの父の家には住む所がたくさんあります」

●ここでの「住まい」(「モネー」μονή)は複数形です。しかし23節にある「住まい」は単数形です。23節では、イェシュアが「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたち(=御父と御子)はその人のところに来て、その人とともに住みます」と語っています。「住みます」と、あたかも動詞のように訳されていますが、原文は「住まいを造ります」となっていて、「住まい」は名詞の単数形となっています。ということは、わたしの父の家には、このような住まいが数多く造られることを意味しています。2節のたくさんの「住まい」(複数)が何を意味するのかと言えば、それは「キリストのからだの多くの器官」を意味します。主のからだには多くの器官があり、それぞれの器官が個別に「御父と御子がともに住む住まい」となることを語っています。つまりイェシュアを愛する人(単数)は、御父と御子とともに一つの「住まい」を造るのです。その「住まい」が父の家にはたくさんあるということなのです。

(2)「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」

●ここでは、あなたがたに場所を用意するために「行き」、かつ「また来て・・迎えます」と述べています。「また迎えに来る」とは語っていません。ですから、これは携挙のことではありません。「行き」「また来る」とは、「死ぬために行き」、「復活してまた来て迎える」ことを意味しています。すでにこのことは、以下の箇所で弟子たちに語っていたことです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書13章33節
子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることが
できません。

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章28節
『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

●ここで私たちは、「あなたがたのために場所を用意しに行く」「わたしが父のもとに行くこと」を、携挙のためと考えてしまいやすいのです。それはやがて私たちが携挙されて、天に備えられた大きな邸宅に住むのだと錯覚しているからです。確かに、主にある者はキリストの携挙の時には一時的に天に引き上げられます。しかしそれは反キリストから守られるため、また花婿と婚姻してハネムーンを過ごすための、ごくわずかな期間だけです。その後は、再び地上に戻って来るのです。重要なことは、天で神と過ごすことではなく、地上で神と人がともに住むことがはじめからの神のご計画であり、みこころです。地上でキリストのからだが建て上げられることなのです。このために三の神が一となって、私たちの霊の中に来てくださるのです。私たちが行って天に住むというのは、一種のパン種、異教的な教えなのです。天の御国のたとえ話に以下の話があります。

【新改訳2017】マタイの福音書13章33節
イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」

●「天の御国はパン種のように、小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます」という話ですが、これは決して喜ばしいことではなく、御国を妨害する敵の仕打ちです。女が取ったパン種とは異教的な教えです。小麦粉はキリストの教えのことですが、その中に異教的な教えであるパン種を持ち込む現実があることを教えています。しかもそのことをするのは「女」なのです。この「女」は歴史の中ではローマ・カトリック教会です。悪しき霊による教えです。これを「ストイケイア」と言います。宗教の教えです。それがキリスト教界全体に影響を及ぼしています。しかし御国(神の支配)はそのようなサタンの妨害にもかかわらず、堅く立つのです。キリストの花嫁も純粋なパンで養われていくのです。

●神のご計画は、私たちのために天に場所を用意することではありません。むしろキリストのからだの中に、多くの場所を備えてくださるのです。霊の中に神と人がともに住む、そのような私たち一人ひとりが集められているのが、キリストのからだなのです。

【新改訳2017】Ⅰヨハネの手紙 4章13節
神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
※「分かります」とは、霊が実体を表すからです。

●原文は、「神が神の御霊を与えてくださっている、まさにそのことによって、私たちは、自分たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることがわかります。」となっています。「私たちは、自分たちが神のうちにとどまっている」ということは、単に個人的に神との交わりをもっているだけでなく、共同体としてとどまっていることを意味しています。このことをイェシュアは「わたしの父の家には多くの住まいがあります」と言っておられるのです。イェシュアは私たちのために、天にではなく、キリストのからだの中に場所を用意するために「行き」、そして「また来て、私たちを迎えられる」のです。つまり主の「死と復活」によって神の住まいが建て上げられるということです。「私たちを迎えられる」のは、天にではなく、私たちの霊の中においてなのです

ベアハリート

【新改訳2017】ルカの福音書24章48~49節
48 あなたがたは、これらのことの証人となります。
49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

●ルカ文書(福音書と使徒の働き)は「外から着せられる力としての聖霊」が強調されています。それに比べ、ヨハネの福音書における「霊」はすべて、人の霊の中に働く御霊(聖霊)を意味しています

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章16~20節
16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます
19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

●ここには、イェシュアが死んだ後、「あなたがたのところに戻って来ます」とありますが、これはキリストの携挙や再臨の話ではなく、イェシュアが復活して「いのちを与える霊」として戻って来ることを言っているのです。そして「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります」とは、人の霊の中に「いのちを与える霊」がミングリングされることで、三一の神と私たちが一つであることが分かるようになるという預言のことばなのです。

●使徒パウロも、神の霊と人の霊がともに証しすることの大切さを語っています(ローマ8:16)。そのパウロがエペソの長老たちに対して語った訣別説教の中に、こうあります。

【新改訳2017】使徒の働き20章27~30節
27 私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。
28 あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
29 私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。
30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

●29~30節で語っていることが、パウロの死後30年ほどのうちに起こりました。異端がはびこり、教会は堕落を余儀なくされます。そうした状況の中でいのちを回復すべく、使徒ヨハネは福音書と書簡を記し、黙示録を書き記しました。その務めは、「神の奥義を余すところなく伝える」 (コロサイ1:26)「パウロの務め」を繕うためです。ヨハネもパウロと同様、いやそれ以上に、神の霊と人の霊の重要性を繰り返し、繰り返し、語っています。とすれば、私たちもそのことを繰り返し、繰り返し、口をもって語り告げるべきではないでしょうか。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2024.2.4
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