****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

03.「ヨハネの福音書2章の『三つのしるし』」


3. 「ヨハネの福音書2章の『三つのしるし』」

ベレーシート

●ヨハネ文書(福音書、手紙、黙示録)が書かれたのは1世紀の終わり頃で、使徒パウロが死んでから30年経っています。その間、エックレーシアは異教の教え(=パン種)によって、いのちの枯渇を招いていたのです。黙示録2~3章を見るとそのことが分かります。ヨハネの務めはパウロの務めを繕うことでした。その繕うべき務めの要点は、「キリストにあるいのち」です。ですから、ヨハネ文書では「いのち」(「ゾーエー」ζωή)が多く使われています。新約聖書で使われている「ゾーエー」は135回ですが、その内訳は以下の通りです。

①「共観福音書」の「ゾーエー」(ζωή)・・16回(マタイ7回、マルコ4回、ルカ5回)
②「ヨハネ文書」の「ゾーエー」(ζωή)・・66回(福音書36回、手紙13回、黙示録17回)
③「パウロ書簡」の「ゾーエー」(ζωή)・・39回(ロマ14回、Ⅰ・Ⅱコリ8回、他17回)
(※「いのち」で検索するとマタイだけでも16回ヒットします。ただしそこには「たましいのいのち」である「プシュケー」ψυχήも入っているので要注意です。原語で検索する必要があります。)

●こうしてみると、ヨハネ文書だけで全体の半分近くを占めているのが分かります。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創世記2:7)とあるように、本来人は「霊とたましいとからだ」からなっています(Ⅰテサロニケ5:23)。「人の霊」は神を入れる容器として造られましたが、最初のアダムがサタンのことばを信じたことによって、人の霊は機能不全に陥ってしまいました。しかし神は最後のアダムを遣わし、死と復活を通して「いのちを与える霊」とならせ、人の霊を再生させてその中に内住させることによって、人にいのちを回復されたのです。つまり「人の霊」と「神の霊」が正しく機能することで、人に再び「いのち」(ζωή)がもたらされたのです。それがなされたキリストの復活の夕べです。神が多くの手順を通してなしてくださった「からくり」を知ることは、「新創造」された者(=New Creature)にとって重要です。

「ゾーエー」の「いのち」は「復活のいのち」であって、「人の霊」と「神の霊」がともに働くことを意味するのです。「いのちにあって生きる」とは、生来の「たましい」(=心)ではなく、「霊」を働かせることなのです。たましいは霊によって造り変えられる部分です。ですから今日も霊を活かしながら、生けるみことばを悟れるように、「シェーム・イェシュア」と叫んで始めたいと思います(エレミヤ33:3)。前回も述べたように、ヨハネの福音書は「しるしの書」です。前回の1章では「いのちのしるし」として「七つのしるし」―「ことば、幕屋、子羊、鳩、とどまる、岩、ベテル(神の家)」―を取り上げました。今回の2章においては「三つのしるし」を取り上げます。その三つのしるしのうち、一つが「時のしるし」、後の二つが「いのちのしるし」です。

1.「三日目」という「時のしるし」

【新改訳2017】ヨハネの福音書2章1~2節、19節
1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。

19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

●太字で記された「三日目に」と「三日で」が「時のしるし」です。1節に「それから三日目に」とあるので、「二日後」のことだと考えるのは人の観点の読み方です。霊の読み方は「三日目に」ということばが「しるし」であるとみなします。「三日目に」はイェシュアの復活を示す重要な「しるし」なのです。イェシュアが「わたしの時はまだ来ていません」(=イェシュアの栄光が現される時=死と復活)と言っているにもかかわらず、ヨハネの特徴は時系列ではなく、創世記1章1節冒頭にある「はじめに」(「ベレーシート」בְּרֵאשִׁית)を踏襲しており、復活の視点から記されていることに留意すべきです。「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)が現在形で記されているのも、そのことを裏づけています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙15章3~4節
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

●使徒パウロが「聖書に書いてあるとおりに」と記していることから、「三日目に」の復活の根拠が、旧約聖書の中に啓示されていることが分かります。重要なのはその根拠となる箇所です。「聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられる」という必然性は、イェシュアのよみがえりが「初穂の祭り」の成就となるという預言的啓示にあります。これについては、「牧師の書斎」の「ヘブル・ミドゥラーシュ例会」の第三回で詳しく扱っています。レビ記 23 章は主の例祭について記されている重要な箇所ですが、その一つに「初穂の祭り」があります。これはイェシュアの復活を予知して、あらかじめ神が定めておられたものです。

画像の説明

●「初穂の祭り」は、必ず過越の祭りの後に来る最初の安息日の翌日、すなわち週の第一日目と決まっています。ですから当然イェシュアが、ご自分の苦難と死を迎える年の過越の日から「初穂の祭り」まで、三日を要することを知っていたはずです。これが「三日目によみがえらなければならない」という「三日目」の必然性です。イェシュアの「よみがえり」の日は、「初穂の祭り」の日と重なる必要があったのです。「初穂の祭り」と初穂としてのイェシュアの「よみがえり」の日が重なるためには、死んだ日を含めた「三日目」でなければならなかったのです。このように主の例祭は、神の不変のご計画(マスタープラン)を正確に啓示しています。それゆえ、「聖書に書いてあるとおりに」(Ⅰコリント 15:4)となるのです。

●「初穂の祭り」には「大麦の束」が献げられていました。しかもその「大麦の束」は「奉献物」と言われます。この「奉献物」は「揺り動かして献げる」ことを示しています。ヘブル語では「テヌーファー」(תְּנוּפָה)と言いますが、その語彙にある「ヌーフ」(נוּף)が「揺り動かす動き」を意味します。メシアの復活の時に地震が起こりましたが、そのことを予知しているのです。このように「初穂の祭り」の「揺り動かして献げる大麦」は「復活のしるし」です。ヨハネはそのことを示すために、「五千人の給食」で少年がささげたパンが「大麦のパン」であったことをあえて記しています。この奇蹟はすべての共観福音書に記されていますが、そのパンが「大麦」であったことを記しているのはヨハネだけです。この事実は、ヨハネの福音書が復活の視点から記していることを物語っている何よりの証拠と言えます。「過越」から「初穂の祭り」までの「三日目」は、メシア(キリスト)の復活の重要な「時のしるし」となっているのです。

2.「水が良いぶどう酒に変わる」という「いのちのしるし」

【新改訳2017】ヨハネの福音書2章3~11節
3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

●婚礼において「ぶどう酒がなくなる」という事態が起こります。それは「いのち(ゾーエー)を失うこと」のしるしです。反対に「水が良いぶどう酒に変わる」という出来事は、「死をいのちに変える」という「いのちのしるし」です。「イェシュアはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された」とありますが、この後3章~11章で記される奇蹟の出来事を、ヨハネは「しるし」としています。それらの「しるし」はイェシュアが「死をいのちに変える出来事」です。しかしヨハネの福音書は、他にも多くの「しるし」で満ちています。

(1) 「ガリラヤのカナ」(2:1, 11)

●婚礼の出来事は「ガリラヤのカナ」でなされました。「ガリラヤ」はイェシュアが宣教を開始された所です。このことを、マタイはイザヤ書9章1節の預言を引用して「異邦人のガリラヤ」(4:15)と言っています。それは事実、歴史的に卑しめられた地であり、苦しみと辱めの地でした。その中に「カナ」という町があって、その地での婚礼にイェシュアは招かれたのです。

●地名としての「カナ」の語源は、動詞「カーナー」(קָנָה)で「得る、買い取る、創造する」を意味します。その名詞「カーネ」(קָנֶה)は「」を意味します。「葦」は「菖蒲」とも訳され、幕屋では「キリストの復活」を表象する香として用いられます。イザヤ書42章には「しもべの歌」が記されており、主のしもべの使命が預言されています。その3節に「傷んだ葦を折ることもなく」とあります。「傷んだ葦」とは「弱った人」を表す比喩ではありません。ヘブル語の「葦」はギリシア語の「カノーン」(κανων)に相当します。まっすぐに⽴つ葦のように、物差し、尺度、法則、原理、基準を表す⾔葉です。ちなみに聖書の「正典」を「カノン」と⾔います。つまり「傷んだ葦を折ることもなく」とは、傷んでしまった神の律法(トーラー)を再びまっすぐに⽴たせて、回復させることを意味する預言です。イェシュアも「わたしが律法や預⾔者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言っています。主のしもべは「みことばの回復」、すなわち神のトーラー(おしえ)を回復する使命を与えられています。その「主のしもべ」こそ人となられたイェシュアです。そのイェシュアは、4節に預言されているように、「地にさばき(ミシュパート)を確立する」者となるのです。このように考えるなら、最初のしるしが「ガリラヤのカナ」で行われたことには深い意味があります。しかもユダヤ教の中心地であるエルサレムから遠く離れた、卑しめられた地でなされたことにも深い意味が隠されています。

(2) 「六つの石の水がめ」(2:6) 

●婚礼があった家には、「ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった」とあります。「いのち」(ゾーエー)は「しきたりによって」生まれることは決してありません。この世の人々、この世の宗教は、多くのしきたり、伝統、慣例、慣習によって縛られています。イェシュアが来られた時代のユダヤ教では、613からなる戒めを守らなければなりませんでした。この戒めを守ることでメシアが来ると信じていたのです。この考えは今も何一つ変わっていません。

●「きよめのしきたりによって」とありますから、その石の水がめは、「身をきよめる」ためのものであったことが分かります。一つの「水がめ」は、「二あるいは三メトレテス入りのものであった」とあります。一メトレテスが40リットルですから、二あるいは三メトレテスは80~120リットルです。「水がめ」(「カド」כַּד)の初出箇所は創世記24章で、そこではイサクの花嫁となるリベカが、泉で水を汲むために水がめを肩に載せていたことが分かります。彼女が肩に載せていた水がめは、カナにある家に据えられた大きな石の「水がめ」のイメージとは異なります。カナの「水がめ」は「きよめのための」(儀式用の)水がめです。その「水がめを水でいっぱいにした」のです。

●ところで、「石の水がめが六つ置いてあった」の「六つ」とはどういう意味でしょうか。「六」という数は人の数を表します。なぜなら、創世記1章で「人」は「第六日」に創造されたからです。また「六」は、完成・成就を意味する「七」の数より一つ少ない数です。つまり不完全な数です。「六」という数が三つ重ねられると「666」となり、それは「獣」の数となります(黙示録13:18)。

●「きよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった」ものの、それは人の外側をきよめることはできても、内側をきよめることはできません。同様に、水をぶどう酒に変えるいのち(ゾーエー)もありません。

(3)「ぶどう酒」

「水」は「神のことば」の象徴です。「水」は「いのちを与える水」にもなれば、「死をもたらす水」にもなります。パウロによれば、「死をもたらす水」とは「文字(もんじ)によることば」に仕えさせるものであり、「いのちを与える水」とは「イェシュアが語る霊のことば(=「レーマ」ῥῆμα)」に仕えさせるものです。その「イェシュアが語る霊のことば」こそが、質の「良いぶどう酒」なのです。しかもそれを飲めば飲むほど味わい深いものとなるのです。イェシュアは「死をもたらす水」を「いのちを与える水」、すなわち婚礼のために「良いぶどう酒」にしたのです。

●宴会の世話役は良いぶどう酒を味見しました。そして、こう言います。「あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました」と。このことばは、新しいぶどう酒が前のものよりも良いことを意味しています。その良いぶどう酒とは「新しくされた霊」を啓示しています。キリストは最良のものを与えられるのです。キリストが私たちの死の水を新しいぶどう酒に変えられるとき、私たちの婚礼のぶどう酒は尽きることがないのです。エックレーシアの場合、このぶどう酒を完全に味わうことができるのは、キリストの空中再臨の時、すなわち携挙の時です。イスラエルの場合も千年王国に入ってからそれを味わうことでしょう。神は新しいぶどう酒をイスラエルに味わわせるために、最後の最後まで、死の水を味わわせます。その喜びが決して尋常なものではないことを、彼らの内に刻み込むためです。

●イェシュアの母マリアが「ぶどう酒がありません」と言ったように、このことは私たちもしばしば経験します。神への礼拝が形ばかりのものとなり、礼拝のプログラムも淡々となされているだけで、味気ない礼拝が繰り返されていると感じます。その中で、何とかならないのかと思っている人はわずかで、多くはただ流されているだけです。流れに流されているのは「死んだ魚」ですが、そのことさえも気がつかないことが殆どです。しかしもしこの問題を人の話し合いで解決することができると考えているなら、イェシュアの出番はありません。主はぶどう酒が尽きることを容認されます。それは私たちに死を経験させるためです。いのちに変える機会を与えるために死を十分に味わわせるのです。ですから、「あなたはわたしと何の関係がありますか」と何度も何度も突き返されるのです。真のいのちの素晴らしさを経験させるために、主は突き放すのです。これは、いのちの木に与らせるためにエデンの園から追放したことに相当します。その場合、私たちはどうすべきでしょうか。「シェ―ム・イェシュア」と呼び求めるしかありません。イェシュアは大祭司として、水をぶどう酒に変えるお方です。大祭司イェシュアはいのちを人の内に回復するために遣わされたお方です。今や、復活されたイェシュアは私たちの霊の中に住み、死の水をいのちの水に変えてくださっています。つまり、すでに「良いぶどう酒」へと、「新しい霊」へと造り変えてくださっているのです。

3. 「キリストのからだという神殿をよみがえらせる」という「いのちのしるし」

【新改訳2017】ヨハネの福音書2章13~21節
13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」
21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。

●13節からは、舞台が「ガリラヤのカナ」から「エルサレム」へと移されます。イェシュアはそこで二つのことをしています。一つは「宮きよめ」(13~18節)で、もう一つは「イェシュアのからだを三日でよみがえらせる」(19~21節)ことです。

(1) 「宮きよめ」というしるし

●16節でイェシュアは「それをここから持って行け」と命じています。原文は「それらを」という複数形です。「持って行け」はアオリスト命令形で一回限りの意志をもって、ここから「取り除け」という強い命令形です。後の「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」の「してはならない」は現在命令形です。継続的な命令です。

●「宮きよめ」は共観福音書がこぞって記しています(マタイ21:12~13、マルコ11:15~17、ルカ19:45~46)。「宮きよめ」は、きわめて辛辣なイェシュアの言動です。イェシュアは商売人たちと両替人たち、そして羊も牛も、宮から追い出しています。商売人たちと両替人たちは当時の祭司長、祭司たちと親戚関係にあったことから、イェシュアの彼らに対する言動は暗に祭司長や祭司たちを批判したことになります。この出来事は、十字架に掛かる「過越の祭り」の時です。ヨハネは時系列を全く無視し、出来事の「しるし」を優先して、これを2章に記しています。

●他に共観福音書と異なる点は、ヨハネが「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」とあるのに対し、マタイの方は「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている」としている点です(マルコもルカも同様です)。宮(神殿)をきよめようとするイェシュアの行為に対して、宮(神殿)を神聖視しているユダヤ当局がそれを黙って見過ごすことはありません。エルサレムに入ったイェシュアの言動の一つ一つが、ユダヤ当局との激しい戦いを仕掛けているのです。それは神とサタンとの激しい戦いが始まったことを示しています。その結果、イェシュアは「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」と言っています。「この神殿」とは、エルサレムの神殿にご自身のからだのことを重ねています。そして「三日でそれをよみがえらせる」とは、ご自分が死んで三日でよみがえることを言っているのです。それを聞いた弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」(詩篇69:9)と書いてあるのを思い起こしたとあります。このことばは、イェシュアの神の家に対する熱心が、逆に敵のそしりを招いてしまうことを示しています。

●当時のエルサルム神殿に主の臨在は皆無でした。外見はきらびやかな素晴らしい石の建物でしたが、神殿の至聖所には「契約の箱」が無く、儀式的にささげ物が献げられ形式化されていました。イェシュアが「強盗の巣」と言ったのは、エルサレム神殿が祭司集団の利得をむさぼる「巣窟」となっていたことを示す辛辣なことばです。

(2) 「神殿を三日でよみがえらせる」というしるし

●19節の「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」ということばは、ユダヤ人に対するしるしであり、かつ預言的・奥義的・重層的です。

「この神殿を壊してみなさい」の「この神殿」とは「神殿」でもあり、かつ「イェシュアご自身」です。21節を見ると、イェシュアは「ご自分のからだという神殿について語られたのであった」とあります。それを「壊してみなさい」(「リュオー」λύω)はアオリスト(過去)命令形です。つまり一回限りの出来事を意味する命令形です。ですから「壊してみなさい」とは、「殺してみなさい」ということです。

「(原文「そうすれば」)わたしは、三日でそれをよみがえらせる」とあります。「よみがえらせる」と訳された部分を、【新改訳改訂第3版】は「建てよう」と訳していました。新共同訳は「建て直す」、回復訳は「起こす」です。ギリシア語は「復活」を意味する「エゲイロー」(ἐγείρω)の未来形となっています。

●神殿をいのちあるものとして建て上げるために、イェシュアは「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」と言ったのですが、ユダヤ人たちは「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか」と言っています。イェシュアが語る「霊のことば」と人間の「たましいのことば」とのちぐはぐな問答が、3章に登場するニコデモや、4章に登場するサマリアの女との間でなされますが、すでにここ2章でも見ることができます。

●イェシュアの口から語られることばは、いつでも「霊であり、またいのち(ゾーエー)です」(6:63)。それを聞くユダヤ人たちの語ることばは「たましい」のことばです。霊とたましいの違いは、イェシュアとユダヤ人たちの会話を見ると、おのずと分かります。霊とたましいを切り分けるためには、イェシュアの語る霊のことばの真意を知ることです。そのためには、機能不全となっていた私たちの霊がイェシュアの「いのちを与える霊」によって再建されていなければなりません。

●前述の「水がぶどう酒に変わること」と同様に、ここでは「神殿(=神の宮)がキリストのからだに変わること」が「死をいのちに変えること」を啓示する「いのちのしるし」となっています。それはいのち(ゾーエー)によって、からだである神の宮が建て上げられるためです。

べアハリート

●イェシュアの「わたしは、三日でよみがえらせる」ということばは、すでに実現されています。しかしいまだ完全には実現されていません。私たちエックレーシアは目下、「建て上げられている」最中です。キリストは死からいのちに変えて、私たちを婚礼のために、「水を良いぶどう酒」に変えてくださっています。宗教的なしきたりや慣習から、また儀式や制度の縛りから解放されて、いのちの連鎖であるからだの一つ一つの部分として育てられ、成長するものとなるのです。

●いのちは森のようです。森にある一つ一つはいのちでつながっています。いのちの連鎖は奥義的です。ことばでそれを言い表すことはできませんが、いのちは確かに存在しています。森の豊かさはいのちの連鎖によって造られています。私たちがそうした森の中に身を置くならば、何とも言えない安らぎを感じるはずです。その生態系のすべてを説明することはできませんが、不思議と感じることはできるのです。同様に、私たちの霊がキリストの霊とともにあるのを見ることはできなくとも、それが働くなら、からだ全体がそのいのち(ゾーエー)につなぎ合わされ、育てられ、成長するのを見ることができるのです。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙 2章19節
・・かしら(キリスト)がもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。


三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2024.2.25
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