****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

07.「ヨハネの福音書5章の『六つのしるし』」


07.「ヨハネの福音書5章の『六つのしるし』」

前へ | 次へ

ベレーシート

●ヨハネの福音書5章には多くの「しるし」があります。これらはすべてユダヤ教に関するものですが、いのちを与える御子の必要性を指し示しています。今回はその中から「6つのしるし」を取り上げます。キリストを持つなら、「死からいのちの中へと移されています」が、キリストを持たないならば、死の中にとどまっているのです。

1.「ユダヤ人の祭り」

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章1節
その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

●ヨハネの福音書は、共観福音書に比べて「祭り」それ自体が「しるし」として重要視されています。「ユダヤ人の祭り」は、レビ記23章に記されている「七つの主の例祭」の他に、「プリムの祭り」と「神殿奉献の祭り」が付け加わったものを言います。ヨハネには三度、イェシュアがエルサレムでの「過越の祭り」に行ったことが記されています(2:13, 6:4, 12:1)。また、「仮庵の祭り」が7章2節に記され、その祭りの最終日となる「大いなる日」についても言及されています(7:37)。

画像の説明

●「ユダヤ人の祭り」は、すべてメシア・イェシュアによってなされる神のご計画を啓示するものです。すでになされたことと、これからなされる神のご計画が「祭り」の中に奥義として秘められています。ヨハネ5章1節の「ユダヤ人の祭り」が「プリムの祭り」であると考えられるのは、その祭りが終わりの日にユダヤ人に起こる出来事として秘められているからです。つまり彼らが「死からいのちに移される」ということが、再び歴史の中で起こることを予表しているからです。「プリムの祭り」の経緯はエステル記の中に記されています。この話は、単にハマンのユダヤ人撲滅計画から彼らが救われたという物語ではなく、「御国の福音」の縮図がこの祭りの中に啓示されているのです。終わりの日に、獣と呼ばれる反キリストによって死に定められたユダヤ人が、最後にいのちに移されるという神のご計画が預言的・奥義的・重層的に含まれています。この「プリムの祭り」が「しるし」であり、その時エルサレムにおける一つの出来事、つまり「38年間病気だった人が癒やされた」という出来事がなされているのです。

2.「羊の門」

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章2節
エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、・・・。

●「祭り」だけでなく、「羊の門」もメシアを啓示する重要な「しるし」となっています。「羊の門」は神殿の北側にある門の一つです。イェシュアが「わたしは門です」と言われました(10:9)が、その意味することは何でしょうか。

【新改訳2017】ヨハネの福音書10章1, 3~4, 7, 10節
1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。
3 ・・牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10 ・・わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

●「まことに、まことに、あなたがたに言います」というフレーズが二度も語られています。ヨハネ特有のこのフレーズは、すべて復活の視点から理解すべきことを意味しています。この箇所は、キリストが羊が囲いに入るための門ではなく、羊が囲いから出るための門となられることが強調されています。そのためのしるしが「わたしは羊たちの門です」に秘められています。「羊」であるユダヤ人を、「囲い」であるユダヤ教の「ストイケイア」から連れ出すための門こそ、「わたしだ」とイェシュアが宣言しているのです。

3.「べテスダと呼ばれる池」

画像の説明

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章2節
エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、・・・。

●「羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり」と記されています。この「ベテスダと呼ばれる池」も「しるし」です。「ベテスダ」(בֵית חַסְדָּא)の語彙の中に「家」を意味する「バイト」(בַּיִת)の連語形「べート」(בֵּית)があります。「ハスダー」(חַסְדָּא)の語彙の中に「ヘセド」(חֶסֶד)があります。「ヘセド」とは「契約における確固とした愛」のことです。「ヘセド」は「恵み」、あるいは「いつくしみ(慈しみ)」と訳されます。ところが、バルバロ訳だけが「愛」と訳しています。これは契約関係を結んだ者同士の「愛」を表します。つまり「契約的な愛」です。英語訳を調べてみると、「確固たる不変の愛」を意味する ①steadfast love ②covenant love ③constant love ④unfailing love ⑤loving-kindnessといった訳もあります。

unfailing loveとは「尽きることのない、絶えることのない、信頼に足る、裏切ることのない、確実な愛」という意味ですが、それを新改訳では「恵み」と訳し、新共同訳は「慈しみ」と訳しています。イスラエルの頑固な不従順にもかかわらず、神がイスラエルを愛し続けることにおいて、異常なほどであるという意味が「ベテスダ」にあるのです。しかしそれは名ばかりで、神の民イスラエルは「恵みの家」とはなっていなかったのです。「ベテスダと呼ばれる池」は、ユダヤ教におけるストイケイア化した避難所となっていたのです。そこにイェシュアが立ち寄り、38年間も病気であった人に声をかけられたことで、神の恵みが回復されたのです。

4. 「五つの回廊」

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章2~4節
2・・・ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
4 【本節欠如】

●ベテスダと呼ばれる池には「五つの回廊」があり、その回廊は「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちの大勢」を覆っていました。そこは「いのちのない避難所」です。しかもその中で、人の努力や責任を示す「しるし」が「」という数で表されています。

●【新改訳2017】では、4節が【本節欠如】となっています。しかしある写本によれば、「主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初に入った者は、どのような者でも癒されたからである」とあります。回廊の周りにいる者たちは、われ先に池に入ろうと虎視眈々と池を見つめていたのです。そこには、あの人の方が私よりも病状が重いから、お先にどうぞという温かさはありません。病人の世界にも、われ先にという競争社会があったわけです。同病相憐れむということもなく、多くの者たちが癒やされることをあきらめていたのです

画像の説明

●ユダヤ教においては、主の使いを通して律法が与えられたがゆえに、主の使いに重要な地位が与えられています。その主の使いが「時々この池に降りて来て、水を動かした」としても、からだに麻痺のある人たちにとっては何ら助けにはなりません。このことはユダヤ教の律法の欠陥をさらけ出しています。確かに律法は良いもの、聖なるものですが、主の使いが来て何度も「水を動かした」としても、からだに麻痺のある人たちにとってそれに与ることは皆無です。まさに「五つの回廊」の「」という数は、無力な人の責任や努力を指し示す「しるし」でした。

5.「三十八年も病気にかかっている人」

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章5~9節
5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。・・・

●ここからが今回の重要な箇所です。イェシュアは多くの病人がいたにもかかわらず、なにゆえに「三十八年も病気にかかっている人」に声をかけたのでしょうか。「三十八年」がある「しるし」となっているのです。

【新改訳2017】申命記 2章14節
カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は、三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな宿営のうちから絶えてしまっていた。主が彼らについて誓われたとおりであった。

●モーセは神が約束されたカナンの地がどのような地であるかを探るために、12の部族からそれぞれ一人ずつを選んで、斥候として遣わしました。選ばれた12人の斥候は40日間もかけてその地を探ったのです。エジプトから連れ出された民の中で、誰一人としてその地を見た者はいなかったのです。モーセ自身も然りでした。ところで、斥候たちの報告は、「そこはまことに乳と蜜が流れていて、すばらしく良い地だが、その地の民は力が強く、その町々は城壁があって、そこに住む民はみな背が高い者たちである」というものでした。この報告に基づいて、その地を占領することはとてもできないと言う者たちと、神が与えると約束したのだから必ず占領できるという者たちとに意見が二分しました。しかし必ず占領できると言う者たちが殺されかけたため、イスラエルの民は38年間荒野をさまようことになってしまったのです。それが「三十八年も病気にかかっている人」ということばが意味する「しるし」です。単に一人のことではなく、不信仰なイスラエルを代表する「しるし」となっているのです。

●イスラエルの第一世代の戦士たちが民の間から完全に絶えてしまった後で、再度、神の恵みと祝福が現されます。新しい次世代に対して、主が「今、立ってゼレデ川を渡れ」と命じたことで、彼らはゼレデ川を渡ったとあります(申命2:13)。約束された地に向かっての新たな歩みが始まったのです。

●「良くなりたいか」というイェシュアのことばは、信仰を呼び起こす「霊のことば」です。「三十八年も病気にかかっている人」は肉的な現実について話しますが、イェシュアはその人の中に「霊のことば」を語ります。それが「起きて床を取り上げ、歩きなさい」ということばです。するとどうでしょう。その人は治って、床を取り上げて、歩き出したのです。まさに、「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことば(レーマ)を通して実現するのです」(ローマ10:17)。霊の中でキリストのことばを聞くとは、理解の型紙をもった心(=肉)で聞くのではありません。心で理解できないことでも、霊で聞いて信じることで、神の霊がその人に働きかけて奇蹟を起こさせるのです。信仰とはキリストのことばを霊の中で聞くことから生じるのです。たましい、心は曲者です。そこはサタンが足場を築いている場です。ですから心に従うなら、トマスのように信じることができなくなるのです。信仰は実に奥義的です。

●「起きて床を取り上げ、歩きなさい」というイェシュアのことばは、「霊であり、いのち」をもたらすことば(「レーマ」)です。このフレーズは「三つの動詞」による命令形で記されています。

(1)「起きて」は「起きる」(「エゲイロー」ἐγείρω)の現在命令形で、「キリストとともによみがえらされている」ことを信じ続けることが命じられています(ヨハネの場合、キリストの復活の視点から語られていることに注意)。ヘブル語訳の「クーム」(קוּם)は復活を意味する語彙です。

(2)「(床を)取り上げて」は「取り上げる、持ち上げる」(「アイロー」αἴρω)のアオリスト命令形です。これは一回的・主体的・自覚的に取り上げることを意味します。ヘブル語訳は「ナーサー」(נָשָׂא)、あるいは「ラーカハ」(לָקַח)が使われます。何を「取り上げる」のかと言えば、原文では「あなたの床」です。「床」は「眠る(死ぬ)」を意味する「シャーハブ」(18)に接頭語がついた名詞「ミシュカーヴハー」(מִשְׁכָּבְךָ)で、「あなたの床」つまり「これまであなたを縛ってきた死の力」を象徴しています。その力を「ナーサー」(נָשָׂא)するなら、神の力によってそれを「持ち上げ、取り上げる」を意味しますが、もし「ラーカハ」(לָקַח)するなら、キリストと一つに結びつくこと(結婚)を意味します。

(3)「歩きなさい」は「歩く」(「ぺリパテオー」περιπατέω)の現在命令形です。ヘブル語訳は「ハーラフ」(הָלַךְ)のヒットパエル態で、信仰による新たな歩みを促す命令となっています。「歩く」のヒットパエル態(הִתְהַלֵּךְ)は、自ら主体的に歩むことを示唆します(創世記17:1)。「床」とは、彼を長い間縛り付けていた力の象徴です。イェシュアはそれを「取り上げて」、自ら新たな歩みをすることを命じたのです。これはエジプトから出たイスラエルが不信仰という「床」を取り上げて、次世代の者たちが「立って」新たな道に歩んで「川を渡った」ことを踏み直させる「しるし」です。

●「床」は歩くことを妨げる死をイメージさせます。「床を取り上げる」とは新しいいのちにあずかるために、自発的に取り上げる(=取り去る)ことを意味します。それは私たちが自分の力で取り上げるのはなく、すでにイェシュアが「持ち上げ、取り除き、赦しておられる」ので、それを信じて新たに「歩む」ことが可能とされているのです。イェシュアの数々のことば(レーマ)に信仰をもって従うなら、神の奇蹟が起こります。不信仰によって約束の地カナンに入れなかった者たちを象徴する「三十八年の病人」こそ、イェシュアの復活のいのちによって生き返り、新たな歩みをすることが可能とされる「しるし」と言えますが、このことが民族的に起こるのはこれからのことなのです。しかしそれは必ずなることを、この「しるし」が証ししているのです。つまりそれは文字(もんじ)としての聖書ではなく、イェシュアによる「いのちを与える霊」によって新しく造られた者として生きることが預言的に啓示されているのです。

●獣と呼ばれる反キリストが立ち上がる時に起こされる「イスラエルの残りの者」(14万4千人)こそ、「三十八年も病気にかかっている人」です。「恵みと嘆願の霊」(ゼカリヤ12:10)が注がれた彼らは、イェシュアがメシアであったことを示されて激しく泣きます。その嘆きはエルサレムで起こります。彼らはイェシュアがメシアであったことを信じて立ち上がるだけでなく、イェシュアの語った「御国の福音」を全世界に宣べ伝えることで、すべての民族に証しし(マタイ24:14)、その結果、「数えきれないほどの大勢の群衆」が救われることになります(黙示録7:9)。「三十八年間も病気にかかっている人」の癒やしは、このことを預言的に啓示する「しるし」なのです

●エックレーシアに属する私たちも、キリストにあって「新しく造られた者」(Ⅱコリ5:17)であることを意識する必要があります。そのためにはいつも「上にあるものを求める」必要があります。「上にあるもの」とは、死んでよみがえられて「神の右の座に着いておられるキリストにあるいのち」そのものです。そこにすでに「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」(コロサイ3:1~4)からです。やがて「キリストが現れる」時、「私たちもキリストとともに栄光のうちに現れる」(将来)からです。「キリストとともに神のうちに隠されている」私たちのいのちは、すでに完成されて、神によって守られているのです。

6.「安息日」という宗教的縛りを破るイェシュア

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章10~16節
10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた(未完了形)。
イエスが、安息日にこのようなことをしておられた(未完了形)からである。

●9節には「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった」とあります。イェシュアはその日が「安息日」であることを承知の上で、彼に「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と言われたのでしょうか。「然り!!」です。イェシュアはその日が「安息日」であることを承知で言ったのです。16節には、イェシュアが「安息日にこのようなことをしておられた」とあります。「おられた」とは未完了形で、「繰り返して同じようなことをされるようになった」という意味です。ですから、ユダヤ人たちも同様にイェシュアを罪定めして、迫害し、殺そうとし始めた(未完了形)のです。

●ストイケイアとしての「宗教」は、いのちを犠牲にしても自らのシステムを存続させようとします。それはサタンが、自らの足場を築いている人の心、あるいは人のたましいを必死になって守るための激しい戦いを引き起こすからです。ですからユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言ったのです。そのように言ったのはユダヤ教の人々です。ユダヤ教がイェシュアのしたことを罪定めしたのです。このことは、宗教が神のご計画にとって最大の敵となることを意味しています。事実、ユダヤ教は神のご計画に対して徹底的に反対し、今もなお反対し続けています。その象徴が「安息日」という「しるし」です。

●ユダヤ教は神のみことばの中から「戒めの部分」だけを選び、それらを使って儀式や規則を考案しました。彼らは聖書の中から戒め、儀式、規定を寄せ集めて宗教を形成したのです。神はこのことを最初から警告していました。それは、みことばの中から「善悪の知識の木、それだけを取って食べてはならない。それだけを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と警告したのです。このことばは「預言的」です。「預言的」とは、イェシュアが現れないと理解できないということです。事実、そのことが起こった最たる出来事が「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」という罪定めなのです。いのちを与え、いのちをもたらすことよりも、「安息日を厳守するということ」。つまり、いのちよりも自分たちの宗教を支えている根幹の事柄が守られることが何よりも重要であり、かつ優先されるべきことなのです。「安息日」だけでなく、ユダヤ人は割礼、食物規定をも自分たちのアイデンティティとして守り抜くことを重要視したのです。これが「律法主義」と言われるものです。定められたことを行うことで、自分は正しいことをしていると思って安心するのです。これが律法主義です。イェシュアによって神のいのちを持って生きているかが問われることはないのです。ですから、目に見える立派さが偽善を生み出すのです。これに対して、イェシュアはあえてユダヤ人の「安息日」を破りました。様々な規定や言い伝え(伝承)を自ら破ったのです。それは羊に「いのちを与えるため」に他なりません。「宗教」は人を活かすいのちをもたらすことはできないのです。ユダヤ教は神のことばによって建て上げられている宗教であり、異教の影響を受けてはいませんが、キリスト教の場合は異教的パン種を多く混ぜ込んでいます。いずれも、いのちをもたらすものではありません。イェシュアこそ、神の「ゾーエー」(ζωή)という「いのち」を与える唯一の方です。

べアハリート

●前回取り上げた「イェシュアを信じる」を思い起こしましょう。この「イェシュアを信じる」の原意は、「イェシュアの中へと(εἰς)信じる」でした。イェシュアを、信じる対象として信じるのではありません。イェシュアを対象として信じることは、たましいによって信じようとすることで、トマスのようになってしまいます。自分の目と耳で聞く情報によって信じようとするのは、たましいの信仰です。それは、イェシュアの復活による「いのちを与える霊」の助けなしに信じようとすることです。しかし「イェシュアの中ヘと信じる」とは、幕屋の聖所の中へと入ることを意味し、イェシュアの中に入ることを意味します。聖所に入ることで、外からは見ることが出来なかった聖所の内部、神性を表す金(メノーラー、パンの机、香壇)を見ることになるのです。イェシュアのことばを信じるとは、イェシュアの中へと入ることであり、そこで初めて目や耳からの情報に左右されることなく、イェシュアの持っておられるいのち(安息、いのち、光)に触れることが出来るのです。決して、「安息日の規定」を守ることによっていのちに与るのではありません。

●ヨハネの福音書が重視しているのは「イェシュアにあるいのち」です。そのいのちを得るために、ヘブル人への手紙を書いたパウロは結論的な重要なことばを二つ記しています。

(1)【新改訳2017】ヘブル人への手紙12章2節
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

●二つの勧めの最初は、「イェシュアから目を離さないでいなさい」にある「目を離さないで」ということばです。「目を離さないで」と訳された原語は「アフォラオー」(αφοραω)です。その意味するところは、「イェシュアだけを見つめながら、私たちの目をイェシュアに固定して目を注ぐ」ということです。私たちの心を散らす一切のものから目をそむけて、ただイェシュアにのみ目を注ぐという生き方、これは「イェシュアの中ヘと信じる」信仰と同義です。

●マタイ14章で、イェシュアは強いて弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせました。ところが向かい風のために、彼らは波に悩まされていました。そんなとき、イェシュアが湖の上を歩いて来られたのです。そのときにペテロとイェシュアが交わしたやりとりがあります。ペテロはこう言いました。「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」するとイェシュアは「来なさい」と言われました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイェシュアの方へ行こうとします。ところが、強風を見て怖くなり、沈みかけたので「主よ。助けてください。」と叫びました。そこで、イェシュアはすぐに手を伸ばして、ペテロをつかんで言われました。「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と。この話は、ペテロが勇敢にもイェシュアの「来なさい」という招きのことばを信じて、舟(最も安全な場)から一歩足を踏み出し、水の上を歩いた出来事です。すごいことですが、風に目を奪われたとき、彼の心に恐れが来て沈みかけたのです。ペテロがイェシュアだけを見て歩いているときには沈むことはなかったのです。この話は奥義的です。だれでもイェシュアから目を離すとき、他のことに気を取られるとき、ペテロと同じようなことが起こるのです。「他のこと」とは、たましいで起こって来ることです。

(2) 【新改訳2017】ヘブル人への手紙13章12~13節
12 それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
13 ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか

●ここでの重要なことばは、「宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」です。ここでの「宿営」とはユダヤ教です。「キリスト教という宗教」であっても同じことです。「何もそこまでしなくても」という声が聞こえそうです。それはストイケイアの力を知らないからです。私たちの信仰はキリスト教に入信することではなく、またキリスト教会に入会することでもありません。ただキリストの中へと信じることです。キリスト教会のこれまでの定説や伝統や教理に縛られることなく、聖書の中に啓示されている真理を正確に悟ることが重要なのです。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2024.4.28
a:94 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional