そそのかされ、惑わされたアハブの生涯
列王記の目次
23. そそのかされ、惑わされたアハブの生涯
【聖書箇所】 22章1節~53節
はじめに
- 列王記第一の最後の22章は、イスラエルの王アハブの死で終わっています。アハブは見た目においては、北イスラエルにおいて文明開化を実現した王です。新しい文化と経済的繁栄をもたらしました。しかし霊的には最も評価の悪い王でした。
- アハブの生涯は妃イゼベルによって「そそのかされ」(「スート」סוּת)、また「ひとりの霊」(「ハー・ルーアッハ」הָרוּחַ)によって「惑わされ」(「パーター」פָּתָה)た生涯でした(※脚注)。22章では「ひとりの霊」によってアハブがどのように惑わされ、自分の墓穴を掘ったのか、ヨブ記と同様、その天上の舞台裏を見ることが出来ます。
1. アハブのお抱え預言者と真実を語る預言者ミカヤ
- ことの成り行きは、ユダの王ヨシャパテがイスラエルの王アハブを訪問した時のことです。アハブはヨシャパテに「私といっしょにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか」と参戦を要請したとき、ヨシャパテはアハブに「私とあなたは一つです」(4節、岩波訳)と言って了承します。ここで彼らは友好関係(和解)を築いたのです。
- ところが、ラモテ・ギルアデでの戦いにおいては二人の見解は少々異なりました。ヨシャパテはこの戦いについて、アハブに「まず、主のことばを伺ってみてください」と申請したのです。そこでアハブは400人の預言者を集めて主のみこころを伺わせました。するとこれらの預言者の見解は「上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます。」という一致した見解でした。このことにヨシャパテは疑念を抱きました。なぜなら、ヨシャパテの言う「主」とはיהוהでしたが、預言者たちが答えた「主」とは「アドーナーイ」אֲדֹנָי(わが主)だったからです。そこでヨシャパテは再度、「ここには、私たちがみこころを求める主(יהוה)の預言者がほかにいないのですか」と尋ねています。この点は重要です。
- そこでアハブは主(יהוה)の預言者ミカヤ(מִיכָיְהוּ)を紹介することとなったのです。但し、アハブにとっては憎むべき(大嫌いな)預言者でした。というのは、ミカヤはアハブについて良いことを預言せず、悪いことばかり預言するからでした。アハブは政治の決定において、自分の都合の良いことを語ってくれるおかかえの預言者たちの助けを得ていたのです。この点こそ、彼が惑わされる要因でした。
2. 天上の戦略会議の啓示
- ミカヤの語った預言は、今回もアハブの意向に沿ったものではなく、イスラエルは羊飼いのいない羊のようになるというものでした。それは王であるアハブの死を意味します。その預言と同時にミカヤは天上での戦略会議のヴィジョンを見ました。
- そのヴィジョンとは、アハブを惑わして、戦場で倒れさせる「ひとりの霊」が立ち上がったことでした。その霊が預言者たちの口に宿り、偽りを言う霊となるために遣わされたのです。天上の戦略をアハブは知りません。預言者たちも知りません。満場一致の預言者の口に働く偽りの霊を知りません。一致した預言をアハブは主のみこころと信じて戦場に出て行ったのです。
- 主のみこころを伺う中にも、実は偶像礼拝があるのです。それは自分に都合の良い意見であったり、みんなが賛成してくれることの中に働いていることを聖書は語っています。今日、ユダヤ人たちは全員一致した場合には、その決定は無効とします。それはこの箇所からの知恵なのかもしれません。
3. 何気なく放たれた矢によって非業の死を遂げたアハブ
- アハブは戦場に赴くときに、自分が王であることを敵の目から欺くために、変装しました。確かに敵はそれに欺かれましたが、主は欺かれませんでした。敵のひとりの兵士が「何げなく」放った矢がアハブの胸を射抜いたのです。そのためにアハブは命を落としました。
- 人間の目には「何げなく」のように見えたとしても、神の目には完璧に必然なのです。「何げなく」と訳されたヘブル語は「トーム」תֹּםです。しかし、「トーム」は「完璧、完全、純真さ、意図されたこと」を意味することばです。神を欺き、敵を欺いたつもりでいたアハブは、皮肉にも、自分が信頼する預言者の口によって惑わされ、欺かれたと言えます。
※脚注 「パーター」פָּתָה
Qal(基本形)・・愚直である、愚かである、そそのかされる。
Nif(受動態)・・だまされる、惑わされる。
Piel(強意能動形)・・いざなう、惑わす、騙す。
Pul(強意受動態)・・惑わされる、くどかれる、納得させられる。
2012.10.17
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