エリファズに対するヨブの反論(3)
18. エリファズに対するヨブの反論(3)
【聖書箇所】23章1節~24章25節
ベレーシート
- あまりも明解なエリファズの見解に対するヨブの反論は、明解ではありません。そうしたヨブの精神情況を要約することばが23章2節と思われます。
【新改訳改訂第3版】
きょうもまた、私はそむく心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い。
【新共同訳】
今日も、わたしは苦しみ嘆き/呻きのために、わたしの手は重い。
【口語訳】
「きょうもまた、わたしのつぶやきは激しく、/彼の手はわたしの嘆きにかかわらず、重い。」
●後半の部分において、口語訳は「彼の手」と訳しています。「彼の手」とは「神の手」という意味ですが、原文では新改訳、新共同訳のように「私の手」となっています。「私の手」とは、ヨブの神への祈りのことです。
●ここでの注目点は前半の部分の「きょうもまた、私はそむく心でうめく」という表現です。「そむく心」も「うめく」もともに名詞です。前者の「そむく心」は動詞「マーラー」(ָמָרָה)の名詞形「メリー」(מְרִי)で「反逆、逆らい、そむき」を意味する語です。後者の「うめく」は動詞と同形の名詞「スィーアッハ」(שִׂיחַ)です。動詞の「スィーアッハ」は瞑想用語の一つです。
- 「メリー」と「スィーアッハ」が入り混じったニュアンスがヨブの心を支配していると言えます。そのニュアンスとは「神を思い巡らしつつ、神に反逆する思い」というアンビバレントな精神情況です。北森嘉蔵師の表現を使うと「行きつ、もどりつ」です。なぜヨブがそのような精神情況にあるのかが問題なのです。
1. 神への交錯した思い
- ヨブは23章において、神に対する交錯した思いを述べています。神の御前で自分の訴えを並べ立て、ことばの限り討論したい。しかし、神は沈黙を続けておられてそれができない。かといって、神はなにもなされないのかと言えばそうではなく、みこころの欲するところを行なわれる。そうした神の主権性(超越性)と不可侵性(神秘性)が、ヨブをして恐れを抱かせ、おびえさせて(不安にさせて)いると考えられます。
2. 悪者による弱者への搾取の現実
- 24章1節においてヨブは次のように語っています。
【新改訳改訂第3版】
なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか。
- 「全能者によって時が隠されていない」とは、神の審判の日については定まっていることを意味しています。もし、そのさばきの日が隠されることなく、確実に告げられているならば、なぜ、神を知る者たちが、その神の審判が実現されている事実を見ないのだろうかと疑問を投げかけます。つまり、神の審判が実施されていないことが強調されています。その現実をヨブは2節以降で取り上げています。
- ヨブは神が正義をもって正しく審判されていない現実、つまり、悪者の横暴さによって弱者が被害を受けている現実をいろいろな例を挙げて語っています。そして、ヨブは、その現実に対して神が正しい統治をされているようには思われないと疑問を表明しています。悪者も善人もともに生き、死ぬ運命にあるとし、この世界は単純な因果応報説では説明できないことが多くあることを述べています。
- だれが、ヨブの語っていることを「まやかし」「たわごと」として否定することができるでしょうか。神の義に対する矛盾性をヨブは反問しているのです。
2014.6.21
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