エリヤの荒野の旅
列王記の目次
20. エリヤの荒野の旅
【聖書箇所】 19章1節~21節
はじめに
- エリヤという預言者はこれまでとは異なった性格の預言者でした。というのは、モーセもサムエルも神のことばを与りながら、同時に、(政治的な意味での)民の指導者でもありました。しかしエリヤは、政治に携わることのない、純粋に神の霊に動かされて神のことばを語る預言者でした。その意味で、エリヤは本格的な意味での最初の預言者と言えます。
- イスラエルには様々な預言者的集団がありました。王のお抱え預言者たちは、主の名によって語ると称しながら、王の気に入りそうなことを言うだけの「お雇い預言者」もいました。そうした職業的預言者に対して、真の預言者は王を批判することをもためらうことなく、もし王が主の御旨に背くなら、即刻立って警告を発し、それに聞かなければ非難をも敢えてする。このような真の預言者の系譜がエリヤから始まったということです。
- 彼の使命は、混交宗教を取り入れていた社会に対して、絶対的な唯一神を告げ知らせることでした。天におられる神と、この地上でご利益をもたらしてくれるバアルの神々とに兼ね仕えていたイスラエルの民に、もう一度、破棄それた契約をもう一度結び直して、絶対的な唯一の神への信仰を回復することでした。
- そのために、エリヤは「主こそ神」という名前のごとく、申命記6章4~5節のみことばをそのまま生き抜いた神の人でした。
【新改訳改訂第3版】 申命記6章4節、5節
4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。
5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。
1. 燃え尽きて、ホレブに向かって旅するエリヤ
- カルメル山での戦いにおいて、イゼベルと食卓を共にする450人の預言者たちが殺されても、なんらひるむことのないイぜベルの毅然とした態度にエリヤは圧倒されます。あれほどの戦いによってなんらびくともせず、何も変わっていない現実を知ったエリヤは、愕然とし、ある意味で、燃え尽き症候群的に陥り、生きる意欲を失しなったかのように見えます。これは、神のために真面目に、そして心を尽くして仕えてきた者だけが陥る罠と言えます。自分の働きはいったいなんだったのか、という虚無感に襲われるのです。エリヤもその一人だったのかも知れません。
- それゆえエリヤは、自分のすべての源泉である神を求めて、つまりホレブの地に向かっての巡礼の旅に出掛けました。そして、そこでエリヤはホレブに着きました。そのとき彼は主の顕現に触れたのです。
【新改訳改訂第3版】列王記上19章11~13節
11 【主】は仰せられた。「外に出て、山の上で【主】の前に立て。」すると、そのとき、【主】が通り過ぎられ、【主】の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に【主】はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも【主】はおられなかった。
12 地震のあとに火があったが、火の中にも【主】はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。
- 黄色の部分の「通り過ぎ」ということばはヘブル語で「アーヴァル」עָבַרですが、ここでは単に「通過する」という意味ではなくて、神の顕現を表しています。同様の例は、出エジプト記33章22節、34章6節にもあります。
- 新約聖書ではマルコの福音書6:48
新改訳改訂第3版 マルコの福音書 6章48節
イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
- ここでの「通り過ぎる」と訳されたギリシア語は「パレルコマイ」παρέρχομαιです。文字通りに「通過する」という意味ではなく、神の顕現を表す言葉なのです。こぎなやんでいる弟子たちのもとにイエスが神として顕れるという意味で、通過してしまうということではないのです。
- エリヤは神の顕現に触れて、神の「かすかな細い声」を聞いたのです。しかもその声は、まだエリヤがしなけれはならない働きがあることを示す声でした。
2. ホレブで示された新たな神の御心
- エリヤがしなければならない働きが三つ示されています。
(1) 再び、荒野を通って帰って行き、ダマスコでハザエルに油を注いでアラムの王とすること。
(2) エフー油を注いで、イスラエルの王とすること。
(3) エリシャに油を注いでエリヤの後継者とせよ。
(1)は、実際には預言者エリシャが行いました。
(2) はエリシャのともがらが行いました。エリヤがしたのは、自分の後継者となるエリヤを育成することでした。神の働き(使命)はエリヤだけで実現できるのではなく、その働き次の時代を担う者に引き継がれることを神は指示されました。
(3) エリヤができることは、エリシャを自分の弟子とし、次の時代の預言者として育成することだけでした。
「エリヤ」は「私の神は主」、「エリシャ」は「私の神は救い」という意味です。
3. エリヤとエリシャとの出会い
- エリヤとエリシャとの出会いは実にユニークです。12くびきの牛のそばで畑を耕しているエリシャのところにやってきたエリヤが、通りすがりに自分の来ていた外套をエリシャに掛けたことで、エリシャが牛をほうってエリヤのあとを追いかけて来て言います。
【新改訳改訂第3版】Ⅰ列王記19章20節
20 「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」
- エリヤはここでエリシャに対して何も言わず、自分の外套(「アデレット」אַדֶּרֶת)を掛けた(「シャーラハ」שָׁלַח)だけです。しかしエリシャはそのことの意味を悟りました。そこで、エリシャは「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」と言ったのです。この申し出に対して、エリヤは「私があなたに何をしたというのか」という「賊問」をしています。「賊問」とは相手のことばと真意をためすための質問です。エリヤはエリシャに対して自分の後継者として、預言者として立ってくれとは一言も言っていないのですが、このことが重要です。なぜなら、エリシャが預言者として立つことは、人の願いや要請によってではなく、神によって立てられたという自覚が必要だからです。ですから、「私があなたに何をしたというのか」と言っているのです。真の預言者は、人から強制されたり説得されてなれるものでも、本心の自発的な意志だけでなれるものではないからです。使徒パウロは人からではなく、神によって召されたという自覚を持っていました。
【新改訳改訂第3版】ガラテヤ人への手紙1章1節
使徒となったパウロ──私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです──
2012.10.12
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