ソロモンの神殿奉献(1) 主の栄光が宮に満ちた
列王記の目次
08. ソロモンの神殿奉献(1) 主の栄光が宮に満ちた
【聖書箇所】 8章1節~21節
はじめに
- 8章はとても長いため、二つに分けたいと思います。一つは、神殿奉献の時期とその宮に主の栄光(シャハイナ・グローリー)が満ちたこと。もう一つは、ソロモンの祈りについてです。ここでは前者の二つについて取り上げます。
1. 神殿奉献の「時期」が意味すること
- ソロモンが神殿奉献する目的は神の臨在をエルサレムの神殿に迎えるためでした。尤も、神の臨在は神殿にのみ制限されるものではないことは言うまでもありません。
- ソロモンがイスラエルの全会衆を招集して神殿を奉献した時期は、「エタニムの月、すなわち第七の新月の祭り」の時とあります。原文には「新月」という言葉はありません。レビ記23:34には「第七月の15日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる」とあります。「エタニムの月」とは、カナン暦の言い方で、バビロン暦では「ティシュリーの月」と言われますが、重要なことは、神殿奉献の時期がイスラエルの三大例祭の一つである「仮庵の祭」の時であったということです。このことは神の歴史においてどのような意味があるのでしょうか。
- 「仮庵祭」では、イスラエル人たちはエルサレムに集まって、粗末な小屋を建てて祝います。時期としては夏の収穫を祝う感謝祭でもあります。9月~10月頃です。ちなみに2012年の仮庵の祭は、10月1日~10月7日までの1週間です。モーセの律法ではこの期間、粗末な小屋(テント)を建てて、そこに七日間過ごすことが規定されています。英語で Feast of Tabernaclesと表現されていますが、文字通り「幕屋の祭り」なのです。神が幕屋に住まわれたことを記念する祭りなのです。ヨハネの福音書1章14節には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とありますが、「住われた」という動詞は「幕屋を張った」という意味です。「ことばが人となった」ということは、神の御子イエスが人となられたこと、つまり、イエスの誕生を意味します。イエスの誕生の時期は「仮庵」の祭り」の時期と結びついています。
- イエスの両親はローマ皇帝の勅令に従い、ナザレからベツレヘムへと旅をしています。当時のローマ帝国もユダヤの祭りをうまく利用して人口調査をした可能性があります。イエスの両親は幼子をペツレヘムの宿屋ではなく、飼い葉おけに寝かせたということは、最も貧しい場所に置いたことを意味します。そして八日目に、イエスは神の民のしるしである割礼を受けているのです(ルカ2:21)。
- ソロモンが神殿に主を迎えるために奉献し、その聖所に主の臨在の雲が満ちたのは仮庵の祭りでした。それと同じく、神の御子イエスがベツレヘムにおいて貧しい「飼い葉おけ」で誕生し、「ことばが人となって住まわれた」出来事が符合します。ルカは主の御使いが野宿で夜番をしていた羊飼いのところに現われますが、その時、主の栄光が回りを照らしたのも、ソロモンの神殿が栄光の雲が満ちたことと符号しています。
- やがて、仮庵の祭りのとき栄光のイエスが雲に乗って再臨されることが預言されています。主の栄光がソロモン神殿に満ちたことが、不思議とイエスの誕生との関連性を持っています。
2. 主の栄光が主の宮に満ちたこと
- ソロモンは神殿(原文では「主の家」ベイト・アドナイ בֵּית יהוהを主にささげるためにイスラエルの全会衆(と言っても主だった人々)を召集しました。まずは、ダビデの町シオンから主の契約の箱を新しく造られた神殿に運び上ることでした。主の規定に従って、祭司たちとレビ人たちが、主の箱と天幕の中にあったすべての聖なる用具を運びました。そして祭司たちは所定の場所に主の契約を安置し、聖所から出て来たときに、「雲(「アーナーン」עָנָן)が主の宮に満ちました。その雲のために祭司たちは立って仕えることができなかったとあります(8:11)。
- ソロモンがこの光景を見て、次のように言っています。
【新改訳改訂第3版】
Ⅰ列王記8章12節後半~13節
主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
そこで私はあなたのお治めになる宮を、
あなたがとこしえにお住みになる所を
確かに建てました。
- 「主は暗やみの中に住む」と仰せられたとありますが、どの箇所で仰せられのでしょうか。詩篇18篇11節に「主はやみを隠れ家として、回りに置かれた。その仮庵は雨曇の暗やみ、濃い雲。」とあります。この詩篇はダビデがサウルの手から救い出された日に歌ったものという表題があります。光の神としての助けではなく、やみを隠れ家としている神の助けであり、雨雲の密雲をご自分のまわりにおいて隠れて、なお私を助けてくださる神です。神は、直接の臨在を避けておられますが、それがまた不思議に助けであり、慰めです。やみを住まいとする私たちが、やみを隠れ家とされる神との交わりができるということが、私たちにとって救いではないかと思います。やみの中でこそ、私たちは神と出会えるからです。
2012.9.14
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