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ナボテ事件に見る偶像礼拝の本質

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列王記の目次

22. ナボテ事件に見る偶像礼拝の本質

【聖書箇所】 21章1節~29節

はじめに

  • 20章の最後の節にあった「イスラエルの王は不きげんになり、激しく怒って(「サル、ヴェザーエーフ」)、自分の家に戻って行き・・」という同じ表現が、21章4節にも再び現われます。「アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった」と。それに「彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。」と付け加えてられています。
  • 神の代理者であるべきイスラエルの王が自分の思い通りに事が運ばなかったことで、すねてしまっているその姿に、アハブの肥大化した幼児性を見ることができます。ここに偶像礼拝の根があります。
  • アハブは確かに北イスラエルに文明開化をもたらした王として位置づけることができます。イスラエルにはなかったよりすぐれたフェニキヤ文化を取り入れ、国を経済的に豊かにしました。彼の家は「象牙の家」と言われるほどに、象牙細工の技術の粋を極めた家に住み、完全にフェニキア文明の虜となっていたのです。
  • そんな彼が自分の家のとなりにあるナボテの畑がほしくなり、それを譲ってほしいと要求し、その要求が拒絶されたとき、お金でなんとでもなると考えていたアハブは、頭を聖なるハンマーで殴られるような経験をさせられたのでした。この拒絶は単なる拒絶ではなく、イスラエルの神である主の法と自分の思いとのかかわりをはっきりと突き付けられる出来事だったのです。

1. 「残りの者」の一人、ナボテの毅然とした拒絶

  • アハブの申し出に対して、ナボテは毅然として、「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」と答えました。「主によって」とは、主の律法に照らすならばという意味。「私には」とは、その神によって譲りの地として与えられている私に取っては」という意味。「ありえないこと」とは、たとえ王と言えども、譲りの地を譲ることは決して許されることではない」という意味です。
  • 「ありえない」と発言したナボテこそ、主がエリヤに語った「バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった、七千人を残しておく。」と主がエリヤに語った「残りの者」の一人でした。
  • 敗戦した日本が、目標を米国をおいて「追いつけ、追い越せ」をスローガンに、所得倍増、列島改革などの政治的戦略で繁栄を築きました。しかしその繁栄は、アハブがそうであったように、「お金でどうにでもなる」という考え方、地位や権力があればなんでもできるという虚しい理想社会を国民に植え付けたように思います。アハブもそうした考えを強く持っていた王です。それ相当の代価を支払えば何でも手に入ると考えていたのです。そうした考え方に真っ向からナボテは立ち向かいました。
画像の説明
  • 21章のひとつの「キーワード」は、「ありえない」という言葉(副詞)です。ヘブル語では「ハーリーラー」חָלִילָה(別表記では「ハリラー」)。それは、英語では「主は~することをお許しにならない」と訳されますが、「とんでもない」、「断じてそうであってはならない」、「~するはずがない」、「とてもあり得ない」、「絶対にそんなことはありません」とも訳されます。たとえ、王であったとしても決して思う通りにはならない神の道理があることを突き付ける言葉です。「残りの者」であったナボテの信仰の姿勢が明確に表された語彙です。

2. イスラエルの神法が全く通じないイゼベルの策略

  • 事の次第を聞いたアハブの妃イゼベルは、おそらく一瞬あきれて物も言えなかったに違いない。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのてしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」(21:7)
  • イゼベルの世界では策略は卑劣きわまりのないものであった。彼女は神の律法を逆手にとって、二人の証人(買収された者)を立てて、公衆の前で、「神と王とを呪った」と偽証させ、合法的にナボテを石打ちの刑で殺したのです。ナボテは、無実の罪を着せられ、また真実を知らされないまま、ただ上から命令に従うだけの民衆の投げた石の雨に打たれて死んだのです。
  • アハブはナボテを殺してまで彼の土地を手に入れるつもりはなかったはず。しかし、まさかイゼベルかぜそこまで恐ろしいことを企てて実行するとは夢にも考えていなかった。しかし出来事は起きた。ナボテの事件はイゼベルの本性が現わされた事件でもあったのです。こんな女性と結婚したことがそもそもの間違いであったと後悔しても、すでに後の祭り。ナボテ事件こそは偶像礼拝の本質をよく表わしています。

3. 神の前にへりくだったアハブに対する、あり得ない神のあわれみ

  • 列王記の記者はアハブについて、次のように記しています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰ列王記 21章25節
アハブのように、裏切って【主】の目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。

画像の説明

21章のもうひとつのキーワードを「そそのかした」としたいと思います。動詞「そそのかした」のヘブル語は「スート」סוּתです。旧約では18回の使用頻度です。基本形はなく、ヒフィール態(使役形)で、「そそのかす、誘い出す、仕向ける、毒される」という意味です。イスラエルの王アハブが、妻イゼベルによって「スート」סוּתされたというのが、列王記記者の見方です。ややアハブに対して同情的な見方をしています。

  • しかしそんなアハブに対して、激しい非難の声を浴びせているのが、預言者エリヤです。アハブはこのエリヤに対しては苦手意識が強かったようです。エリヤに対して「イスラエルを煩わせる者」と言ったアハブ。そのアハブに対してエリヤは「私はイスラエルを煩わせません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨てて、あなたはバアルのあとについています。」と逆襲しています(Ⅰ列王記18:17~18)。
  • ナボテ事件の後(列王記の設定では)、エリヤはアハブ一家に対する神のさばきを宣告します。このさばきの宣告に対して、アハブはなんとすぐに悔い改めているのです。そして主はエリヤに次のように語りました。

【新改訳改訂第3版】列王上 21:29
「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」

  • ここには、普通ではあり得ない神のあわれみが示されています。しかも、アハブ一家の中で、先祖の墓に葬られたのはアハブただ一人であったということも、普通の感覚ではあり得ない話なのです。神のあわれみの基準は私たちの判断をはるかに越えているのです。
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  • ちなみに、「へりくだる」というヘブル語は「カーナ」כָּנַעです。旧約では36回の使用頻度です。有名な箇所としては、歴代誌下7:14があります。この動詞は歴代誌の特愛用語で第一は3回、第二は16回も使われています。

新改訳改訂第3版 Ⅱ歴代誌 7章14節
わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。


2012.10.16


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