バプテスマのヨハネのつまずき
44. バプテスマのヨハネのつまずき
【聖書箇所】マタイの福音書11章1~15節
ベレーシート
- これまでのマタイの福音書は、大きく分けると以下のように区分できます。
(1) イェシュアの宣教の開始・・・・・・・・・・4章17節~25節
(2) 山上の説教(御国の憲章) ・・・・・・・・・5~7章
(3) 奇蹟による御国のデモンストレーション ・・8~9章
(4) イェシュアの宣教戦略 ・・・・・・・・・・10章
そして今回から、
(5) イェシュアに対するつまずき・・・・・・・・11~12章に入ります
- 11章に入って最初にイェシュアに対してつまずいたのは、なんとバプテスマのヨハネでした。まずヨハネの遣わした弟子に対して、そしてヨハネの話を実際に聞いた人々に対して、イェシュアは、「わたしにつまずかない者は幸いです。」と語っています。さらには、数々の力ある奇蹟がなされたにもかかわらず悔い改めようとしなかったコラジン、ベツサイダ、カペナウムの町々の人々、安息日に穂を摘んだことや癒しをしたことで「安息日違反」と訴えられた「安息日論争」、パリサイ人たちによるイェシュア殺害の相談、さらには、イェシュアが悪霊を追い出しているのは悪霊たちのかしらの力だとする「ベルゼブル論争」へと話は展開していきます。そのような中でイェシュアをメシアとして受け入れるのか、拒否するのかという二者択一が迫られます。イェシュアに対して中立の立場は存在しません。イェシュアの宣教の働きは、その時代の人々にますますつまずきを与えるものとなっていきます。したがって今回からのメッセージは、しばらくの間、「イェシュアへのつまずき」というテーマに沿って扱われます。それとは対照的に、イェシュアに従う弟子たちに対する珠玉のメッセージもところどころに語られています(11:25~30、12:49~50)。私自身もそうとは知らずに、11章28節のみことばによって、今から46年前に教会に導かれたのです。それでは、早速、11章に入っていきたいと思いますが、1節からイェシュアは十二弟子たちとは別れて、単独で伝道の働きをされています。弟子たちと再会するのは12章1節からです。
【新改訳2017】マタイの福音書11章1節
イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。
- 10章でイェシュアの宣教戦略を十二弟子たちに語られた後、イェシュアは再び、町々で「教え」、「宣べ伝える」ために「そこを立ち去られた」とあります。4章23節でも、9章35節でも、「教え」と「宣教」と「癒やし」がセットになっていたにもかかわらず、11章1節では「癒やし」が欠けています。それは8~9章で「癒やし」のデモンストレーションが十分になされたからです。11章2節に「さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは」とあることから、「癒やし」が前提にあることが分かります。
1. バプテスマのヨハネのつまずき
- さて、イェシュアのガリラヤ宣教はバプテスマのヨハネが捕らえられた時から始まりました(4:12, 17)。ヨハネが誰によって捕らえられたかといえば、ガリラヤとヨルダン川をはさんだ斜め向かい側のペレヤの領主であったヘロデ・アンテパスによってでした。ヘロデ・アンテパスは自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを略奪し、結婚したことをヨハネに責められたことで、彼を捕らえたのです。ヘロデはすぐにでも彼を殺そうと思いましたが、群衆がヨハネを預言者として認めていたために、群衆を恐れたヘロデは彼を獄中に入れたのです。それ以来1年近くの時が経過し、ヨハネは処刑を待つばかりの身となっていたのです。その間に、イェシュアは宣教を開始し、多くのわざをなしていたのです。そのことが思いがけない波紋をもたらしました。バプテスマのヨハネは獄中でイェシュアの活躍ぶりを聞き、メシアである確信を強めるどころか、むしろ迷いが生じたようです。そこで、ヨハネは自分の弟子たち(ルカ7:18によれば、遣わされた弟子は二人とあります)を遣わしてイェシュアにこう尋ねました。
【新改訳2017】マタイの福音書11章3節
「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」
- 時が経つうちに、バプテスマのヨハネが考え、期待していたメシア像とは微妙に食い違っていたようです。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」という質問をするということは尋常なことではありません。イェシュアこそメシアだと確信して多くの人に紹介してきたからです。このヨハネの質問に対してイェシュアは、イザヤの預言(35:5~6、61:1)を引用して、その預言が文字通り行われていることを強調して、自分がメシアであることを証拠立てています。
【新改訳2017】マタイの福音書11章4~6節
4 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。
5 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
- ヨハネはなぜイェシュアがメシアであることに迷いが生じたのでしょうか。イェシュアは、ヨハネからつまり、遣わされた弟子たちに、「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。」と答えるだけでした。そして、「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」と言って、信じることを求められたのです。
- バプテスマのヨハネもイェシュアも「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」という同じメッセージを語って宣教の働きを開始しています(マタイ3:2=4:17)。しかしそのメッセージの解き方は当初から異なっていました。二人のメッセージの違いは、ヨハネは罪に対する神のさばきを語って悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと語ったのに対し、イェシュアは天の御国のすばらしさに焦点を当ててそれをデモンストレーションしました。しかもそのデモンストレーションは、すでに預言者たちが語っていたことなのです。ヨハネの使命はあくまでも天の御国をもたらすメシアの道備えとしての働きでした。
【新改訳2017】マタイの福音書3章11~12節
11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。
- これを読むと分かるように、使命の違いはヨハネも気づいていたはずです。しかし、御国に対する考え方が違っていたようです。バプテスマのヨハネはイェシュアの働きを直接見ることなく、捕らえられてしまいました。そして、ヨハネの言う「11 その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」という働きをイェシュアのうちに感じられなかったのではないかと推測します。自分の身は投獄されていて、いつ処刑されてしまうかわからない状況の中で神に背く者に対する厳しいさばきをもたらすはずのメシアとは違っていたことで、イェシュアに対する期待が裏切られたと感じ、それがヨハネのつまずきとなって、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」と言わせたのではないかと思います。
- そう思うと、イェシュアの言う「わたしにつまずかない者は幸いです」ということが本当に難しいことなのだと感じさせられます。「いいえ。私は大丈夫です。決して私はつまずきません」と言えるでしょうか。イェシュアが弟子たちに対してこう言われました。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と。すると、「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」と言った弟子がいました。しかしこの弟子は見事につまずいてしまいました。その弟子とはだれのことでしょうか。そうです。弟子たちの筆頭、「岩」と呼ばれた「シモン・ペテロ」でした。彼はいつでも筆頭に立とうとして発言するタイプですから、この時「私は決してつまずきません」と真っ先に言いましたが、おそらく他の弟子たちもそうであったに違いありません。イェシュアとともに三年半過ごしてきたはずの弟子たちでもイェシュアにつまずくのですから、私たちも自分を買いかぶりすぎてはならないのです。ちなみに、イェシュアを三度も否んだペテロが立ち直ることができたのは、ひとえにイェシュアが彼のために祈ったからです(ルカ22:32)。
- 「つまずく」と訳されたギリシア語の「スカンダリゾー」(σκανδαλίζω)は、今日でも「スキャンダル」という言葉で使われています。新約で29回のうちマタイが14回と最も多く使っています。このことばをヘブル語に訳すと「カーシャル」(כָּשַׁל)ですが、その初出箇所がレビ記26章39節にあります。そこではひとりがつまずき倒れると、連鎖的に他の者もつまずき倒れてしまう不安定な状態になるということで使われています。今回の場合、バプテスマのヨハネがイェシュアにつまずくということは、彼を知る群衆にとっても大きな影響があるとイェシュアは考えたと思います。そうならないためにも、バプテスマのヨハネを知る群衆たちに対して誤解しないように語っているのが7節以降なのです。
2. ヨハネのことについて語るイェシュア
【新改訳2017】マタイの福音書11章7~11節
7 この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。
9 そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。
10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
- ここでイェシュアは群衆に対して、「あなたがたは何を見に行ったのですか」と繰り返し尋ねています。つまり荒野で預言者の声として語っていたヨハネに焦点を当てるためです。イェシュアは質問しながら自ら答えています。群衆が荒野に行って目にしたのは、「風に揺れる葦」でもなく、「柔らかな衣をまとった人」でもないでしょう。あなたがたヨルダン川へ向かったのは、神のことばをまっすぐに語る「預言者」に会うためではないですか。それは間違ってはいないのです。しかもイェシュアは彼を「預言者よりもすぐれた者」と言って評価しています。
- さらに10節でイェシュアは「この人こそ「『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。」と言っています。「書かれているその人です」とは、バプテスマのヨハネは普通の預言者とは異なり、預言者によって預言された人物としてイェシュアの前に遣わされた者、しかもイェシュアの「前に道を備える」という前座的働きのために遣わされた預言者だということです。つまり、預言された預言者というのは珍しい存在だということ、さらにメシアなるイェシュアの道を備えるという特別な働きのゆえに、彼は「預言者よりもすぐれた者」と言われているのです。旧約時代の預言者マラキがそんな彼の出現を預言していました。
【新改訳2017】マラキ書 3章1 節
「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の【主】は言われる。」
- マラキ書3章1節の「彼」が、以下の4章5節では「預言者エリヤ」と言い換えられています。
【新改訳2017】マラキ書 4章5~6節
5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。
それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。
- ヨハネはまことに偉大な者でした。さらにイェシュアのことばが続きます。11節「まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした」と最大限の賛辞をしています。「女から生まれた者」という表現は、旧約で2回(ヨブ記15:14,25:4)、新約で3回(マタイ11:11、ルカ7:28、ガラテヤ4:4)使われていますが、すべて「人間」を意味するヘブル的表現です。つまり人間の中で「バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした」というのは、イェシュアのために道備えをするというヨハネに与えられた特別な使命のゆえです。「現れませんでした」と完了形で書かれています。過去だけでなく、現地上で生きているすべての人を含めて、イェシュアは「現れなかった」と言っているのです。これほどまでに、イェシュアはヨハネの偉大さを語っているにもかかわらず、イェシュアは次のように述べています。「天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です」と。
- ここが実は最も重要なところなのですが、御国の民の中でたとえ一番小さい者でさえ、彼より偉大だということです。その理由は、ヨハネが陥っている「つまずき」のゆえです。御国の民である「一番小さな者」(=イェシュアの弟子を意味します)は、天の御国を知り、それを広める使命が託されている点で、ヨハネとは比べようもないほどに「偉大」(「メガス」μέγας)なのです。御国の中で「一番小さな者」(「ミクロス」μικρός)のことをイェシュアはマタイ11章25節では「幼子」(「ネーピオス」νήπιος)とも呼んでいます。この言葉が聖書で使われる時は文字通りの「幼子」を意味することもありますが、イェシュアの弟子のことを指す言葉となっています。新約聖書では信仰者を、霊的な意味で「幼子」(「ネーピオス」νήπιος)と「成熟した者」(「テレイオス」τέλειος)とに分けています。
3. 「耳のある者は聞きなさい」
【新改訳2017】マタイの福音書11章12~15節
12 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。 そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
13 すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。
14 あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。
15 耳のある者は聞きなさい。
- ヨハネのことを知っている群衆に対して、イェシュアは12~15節で語り続けます。ところが、12節の「天の御国は激しく攻められています。 そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」という部分が実はとても難解なのです。どの注解書を見ても良くわからないのですが、『イエスはヘブライ語を話したか』(ミルトス社)という本の中で、ダヴィッド・ビヴィン氏がこの箇所について取り上げているのでご紹介したいと思います。
- ダヴィッド・ビヴィン氏は、この12~14節を理解するためには、フルッサル教授(ヘブライ大学名誉教授)によって発見されたイェシュア以前のラビ(ラダック)のミカ書2章12~13節の解釈(ミドゥラーシュ)が鍵だとしています。今回はその解釈を取り上げてみたいと思います。と同時に、私が「牧師の書斎」のミカ書の瞑想で書いていることから説明してみたいと思います。まずはその聖書箇所を見てみましょう。
【新改訳2017】ミカ書2章12~13節
12 ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。
13 打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、【主】が彼らの先頭を進む。」
- この預言は、明らかにメシアによって確実に起こる終末の預言です。終末預言は私たちが「御国の福音」を理解する上できわめて重要です。その箇所には同義的パラレリズムが繰り返して用いられており、将来に起こる出来事の確実性が強調されています。 12節で重ねられている動詞は「アーソーフ」(אָסֹף)で、「集めに、集めて」で「必ずみな集め」と訳されています。もうひとつは「アーソーフ」と同義の「カーヴァツ」(קָבַץ)で「呼び寄せ、呼び集める」で「必ず呼び集める」と訳されています。そのようにしてイスラエルの神を敬う「残りの者」たちを、囲いの中の羊のように一つの群れにするというのです。そしてこのことが、ことごとく、確実に、必ずなされるという預言なのです。
- 12節には「わたしと呼ぶ主が、イスラエルの残りの民を必ず呼び集めること」が三回にわたって繰り返されています。これはメシアが地上再臨の前に実現されることです。「囲いの中の羊のように」「おりの中の羊のように」と訳された部分は、新改訳の脚注によれば、「ボツラの羊」とも読めるとしています。「囲い」とか「おり」と訳されたヘブル語が、エドムの「ボツラ」(בָּצְרָה)と同じ綴りだからです。「ボツラ」は、イスラエルの「残りの者」たちが獣と呼ばれる反キリストの支配から逃れると預言されている場所です(ダニエル書11:41)。彼らはそこにおいて「恵みと嘆願の霊」が注がれ、自分たちが十字架につけたイェシュアこそ神の御子メシアであることに目が開かれます。そのことによって、イスラエルの「残りの者」はイェシュアを王としてつき従い、一つの群れとなるのです。そのときのことをイザヤ書63章1節で以下のように預言しています。
「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方(=再臨のメシア)は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者。」(新改訳2017)
- ミカ書に戻ります。「こうして、人々のざわめきが起こるのです」の「人々」とはボツラに隠されたイスラエルの残りの者たちです。そしてそこにメシアが現われるとき、「人々のざわめきが起こる」のです。「ざわめきが起こる」と訳されたヘブル語は「フーム」(הוּם)で、「かき乱す、どよめく」と言った意味です。このイメージを先ほどのダヴィッド・ビヴィン氏は、以下のように説明しています。
「これらの句は(ミカ書2:12~13)、比喩的なイメージに富んでいる。それは、夜間のために羊を囲いに囲んだ羊飼いの図である。羊飼いは、丘の斜面で岩を積んで仮の石垣をつくって、羊の囲いとする。翌朝、羊を連れ出すのに、並べた岩のいくつかを放り投げて、石垣に穴を開ける。羊飼いは、自分のその「門」から羊を引き連れて出る。羊たちは一晩中囲いに入れられていたので、窮屈な場所から早く飛び出たいと待ちかねている。もちろん、押し合いへし合い、中には一度に出たいとする幾匹かもあり、文字通りに「打ち破ろう」と飛び出そうとする。・・ついに広い野原に出て、羊飼いの後に突進している羊たちの姿がある。」
- このイメージを持って13節を、先ほどのラビの解釈にしたがって理解するとどうなるのでしょうか。
ミカ書2章13 節
打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。
彼らの王が彼らの前を、【主】が彼らの先頭を進む。
- 本来ならば、「打ち破る者」と「彼らの王」とは同義的パラレリズムよって同一人物であるべきなのですが、ラビの解釈は「打ち破る者」をエリヤと解釈し、「彼らの王」をメシアであると解釈しているのです。この解釈をフルッサル教授が発見して、イェシュアもその解釈をもってバプテスマのヨハネと自分の関係を語ったのだとしているのです。そのように解釈すれば、マタイの11章12節の「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています」の解釈はどうなるのでしょうか。
- ミカ書2章13節の「打ち破る」と訳されたヘブル語は「パーラツ」(פָּרַץ)です。「どっと流れ出る、ほとばしり出る」という意味のことばです。その意味でマタイの11章12節を訳すと、「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は「激しく攻められています」ではなくて、「ほとばしり出ています」、そして「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」ではなくて、「その中のすべての者がほとばしり出ています」という意味なのです。ちなみに、新改訳2017の脚注に12節の別訳として「力強く到来しています」とあります。
- ミカの預言の成就はキリストの地上再臨前のことなのですが、御国はすでにバプテスマのヨハネの時からそれが始まっているということをイェシュアは語っているのだということです。確かに、天の御国はそこに入る人々によって「ざわめいている」のです。天の御国は、バプテスマのヨハネの登場とイェシュアの登場によって、すでに始まっているのです。しかしいまだその時は完全には来ていないのです。この緊張関係が同時に起こっているということをヨハネは理解できなかったのです。そして「風に揺れる葦」のようにイェシュアにつまずいたのでした。しかし今、イェシュアの話を聞いている群衆に対して、このことを理解するように、信じるようにと求めたのが、「耳のある者は聞きなさい。」(15節)ということばだったのです。このフレーズは御国の奥義を知ることにおいてきわめて重要な語彙なのです(マタイ13:9, 43)。
2018.12.9
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